――タイ、ラオス、ビルマをめぐって――


かつて、雑誌『International Socialism』の編集委員だった英国人ナイジェル・ハリスNigel Harrisは、『The End of the Third World: Newly Industrializing Countries and the Decline of Ideology』(Harmondsworth: Penguin, 1987)のなかで、かつて非同盟と自律的・内発的発展の象徴とされた「第三世界」の概念が、グローバルな市場への輸出型工業化をめざすNIEs諸国・地域の経済発展と、それに伴う相対的な生活水準の上昇という現実の前に崩れ去って行くありさまを描き出している。

「第三世界」という概念は、地球が3つの領域のモザイクから成り立ち、それを空間的障壁が仕切っていることを含意する。だが、世界的な空間統合の進展は、この仕切りを乗り越えることを容易にし、空間にますます連続性を与えた。こうしてしだいに、「第一世界」の中心から、新しい国際分業にもとづくグローバルな資本蓄積がもたらす甘い蜜の香りが、「第三世界」へとますます強く流れるようになった。他方、「第二世界」の中心から流れてきていた社会主義の理念は、資本主義体制をとる植民地支配者との断絶を訴えて、一時広い空間的範囲にわたる途上国の指導者の心をつかんだものの、スターリン型の中央集権計画経済が破綻する中で、しだいに色褪せていった。

ここから、アメリカ合衆国や西欧を主な市場とする多国籍企業がつくりだすグローバルな空間の中に少しでも深く・巧みに参入し、グローバルな分業体系の一翼を担って財を海外に輸出し、そこからとりだした富を蓄積して経済成長を図ろうとする、発展途上諸国の競争が始まる。社会主義政党の一党独裁の政治体制下にある国でさえ、政治体制をそのままにしながら、かつての輸入代替工業化政策を転換し、労働の疎外や資本蓄積がもたらす不平等に対する批判の口をさっぱりとぬぐって、むしろ積極的に、一党独裁下に置かれた自国の国民を低賃金労働力としてグローバルな資本主義に差し出す知恵を編み出した。この政策を推進すれば、民族資本家であれ、共産党官僚であれ、ミクロに経済的利益が転がり込む。

しかし、利益を得たと感じたのは、少数の特権階級だけではなかった。この過程は同時に、草の根のレベルで、乗用車・海外ツアー・パーソナルコンピューター・ジーンズ・コーラ・ファーストフードチェーンなど、アメリカ的な大量消費様式のフロンティアの拡大をともなっていた。こうした、今やグローバルに同質化された消費様式につき従うことが一つの社会的地位を意味するようになり、国を問わず人々はそれをますます追い求めるようになった。これを国民に充たすことのできる政権は大衆的な支持を受け、逆に「非同盟」・「内発的経済発展」の方針を貫き輸出で外貨を稼げない国は、生活水準が悪化にむかい、大量消費様式を享受できない人々の不満が作り出しかねない政治不安を強圧で抑え付けることを迫られた。こうして、「第三世界」という、グローバルな体制からみずからを断ち切ったところに国や民族の自立があるとする非同盟の思想は、それを支えるはずの草の根のローカルな場所からも包囲され、崩壊していったのである。

これはいうまでもなく、「周辺フォーディズム」と呼ばれることもある階級同盟に基づいた、新しいグローバルとローカルの関係である。グローバルな空間に広がる大量消費的な行動様式が生み出す市場めあてに財を輸出し、これによって生じた賃金上昇が、自国というローカルな場所に生活水準の向上をもたらす。そして、このことが、その国の社会統合・政治体制の安定をもたらすのである。

しかし、ここにはむろん問題が存在する。閉じられた輸入代替工業化を基盤として経済・社会の内発的発展が可能となるとする「非同盟主義」の主張は、もともと、ローカルな異質性が持つ意義の全面的な肯定を説く思想であった。各々の場所に埋め込まれた定性的なロカリティには個性があり、それは場所固有の歴史的遺産と伝統に裏付けられて発生してきたもので、それゆえに無条件に価値があって、他者はどんなことがあってもこの価値を侵してはならず、全面的に尊重しなくてはならない、という思想であった。それによりはじめて、国民もそれ自体独自に価値ある歴史と民族性を持つ自立した主体として自覚と誇りを持つことができる。植民地主義は、かつてこれを侵したがゆえに厳しく糾弾されたし、多国籍企業は、現在この民族の自覚と誇りを踏みにじって、搾取される低賃金労働者として自国の国民を従属的地位に置くから、同様に糾弾されたのである。

しかし、グローバルな空間統合が、世界中に垂直分割された生産工程をばらまき始めると、様子は変わり始めた。自給的農村経済から、一足飛びに社会主義に「転化」するための政治や思想をいくら説いても、新しい国際分業が作り出す生活水準はその国には実現できない。社会主義を支えるはずの高い生産力水準、そして高い生活水準を実現するには、生産技術や空間統合の建造環境という、手に取ることのできる堅い人工物(tangible artefact)が必要である。そのためには、資本が蓄積されなくてはならず、資本蓄積は、グローバルな資本の空間に、自国の資源や労働力を供出することによってしか達成され得ない。こうした資本主義経済の強制法則を、遅まきながら「第三世界」の指導者たちも自覚するようになったのだ。

こうして、ごくわずかの国を除く世界中の全ての場所は、資本の至上命令が貫徹する空間に参入し始めた。だがこのことは同時に、拡張しつつあるグローバルな資本主義の空間に展開する新国際分業の中で、全ての国・地域が序列付けられるようになったことを意味する。国や地域は、1人あたり国民所得で、そのマクロ経済の米ドルに対する為替レートや株価の動向で、あるいは乗用車やコンピューターなどアメリカ的消費様式が普及する度合で測られるようになった。これらの指標はいずれも、経済統計を用いて容易に定量化が可能である。それにより世界は、無条件に価値ある定性的個性を持つ場所の集合であることをやめたのはもちろん、3つの領域から成りたつモザイクであることもやめ、アメリカ合衆国から最貧途上国に至る一つの直線において場所が定量的に序列づけられるスペクトルに転化したのである。


97夏 タイ・ラオス巡検

 

バンコクアユタヤカンチャナブリチェンマイメーサロン 

タチレクフエイサイルアンプラバンヴィエンチャンノンカイ

タイの歴史・政治史:第二次世界大戦以前第二次世界大戦以後

 

《今回の巡検行程》

9782 夕方、バンコク市内のホテルへ集合

(如水会OBとの会食)

83 バンコク−カンチャナブリ−ナムトク−バンコク

JEATH戦争博物館,旧泰面鉄道,クワイ川鉄橋

84 バンコク−アユタヤ・・・チェンマイへ寝台特急で移動

(日系企業工場:「味の素」「富士通」を訪問)

85 チェンマイ−メーサロン

ドイ・ステープ,チェンマイ大学部族研究所

86 メーサロン−タチレク−フエイサイ

少数民族アカ族の村,ビルマ領タチレク,ゴールデントライアングル

87 フエイサイ−ルアンプラバン

メコン川を高速艇で移動,メコン川沿いの村:パクベン村

88 ルアンプラバン−ビエンチャン

世界遺産の街:ルアンプラバン,空路でビエンチャンへ移動)

89 ビエンチャン−ノンカイ・・・バンコクへ寝台特急で移動

ナムグムダム,友好の橋,ノンカイの農家訪問

810 バンコク着


 

今回、ゼミナールの巡検で訪問したタイとラオスは、いずれも、非同盟からグローバルな分業体系への参入へ、とある時期に大きく舵をきった国である。タイは、東南アジアの諸国がすべて欧米列強の植民地とされたなかで、領土割譲など犠牲を払いながらも唯一独立を維持した。しかし戦後は早くから、「第一世界」に自国を包摂させ、1960年代はヴェトナム戦争で合衆国の世界戦略に協力、新国際分業が展開し始めた1970年代後半からは、従来の輸入代替・内需志向から輸出型軽工業を基礎とする経済発展モデルへと大きく舵を切った。相対的な低賃金と、従順な労働力を求めて、数多くの工場がタイにやってきた。特に、歴史的近接性などもあって日本企業の進出はすさまじく、タイに対する海外直接投資の3分の1から5分の1を占める。これに対する労働力供給は、潤沢な北部や東北部からの人口流入によってまかなわれることも多く、人々の所得はしだいに向上し、生活水準も上昇した。ついには、実体的な経済を伴わなくとも、負債と投機を通じこの上昇は永遠に続くかのような信仰さえうみだすほどに、この「周辺フォーディズム」はかつての「第三世界」を制覇したのである。他方、ラオスは、1975年のソ連型社会主義革命でいったん「第二世界」へとみずからを結び付けたものの、1986年には早くも「新思考」を編み出し、政治的にはヴェトナムと結びつきつつ、バンコクを拠点とするバーツ経済圏のなかでグローバルな資本主義に参入する道を歩み始めた。

「第三世界」のモザイクから新国際分業のスペクトルへ、場所への定性的な価値の尊重から定量的な貨幣のタームで測られるスペクトル上の無機質的な位置づけへ、いうグローバルな空間編成の大きな転換。この過程が今、眼に見える形で進んでいる場所へ、私たちは199782日、到着した。その夜は、如水会バンコク支部下平厚一郎最高顧問(写真)をはじめ先輩方が、タイ料理で私たちを大歓迎してくださった。

タイ王国という場所もまた、空間の拡張の中でできあがった歴史をもつ。もともと、中国南部の山岳地帯、雲南省を起源とするタイ族は、11世紀頃から南部の肥沃な低地に下がってクメール人やモン族など先住民族と戦いつつフロンティアを拡張しはじめた。やがてムアング(小部族国家)にまとまり、その中からスコータイ朝とランナータイ王国が頭をもたげてきた。

ランナータイ王国は1281年、チェンライのマンラーイ王が北部のモン族を追い払って建国した。15世紀半ば、ティローカラート王のとき最盛期を迎え、今日のラオス・ビルマ(ミャンマー)・タイにまたがるメコン西岸を広く支配した。だが16世紀末頃からビルマなどに従属するようになり、結局チャックリー朝のラーマ5世に併合される。スコータイ朝は1238年、シーインタラティット王を名乗った土侯の一人が クメールをやぶって建国した。13世紀末からのラームカムヘン王のとき最盛となり、現在のタイに相当する領土に拡大したが、その死後、北部の土侯の反乱で王国は分裂し、1378年、その一つであるアユタヤ朝の属国となった。

アユタヤ朝は1350年、ウートーン領主ウートーン侯によって、アユタヤを都に建国された。15世紀半ばから、捕虜のクメール人を使って中央集権制を確立したが、ビルマとの戦いが続き、1569年にはアユタヤが陥落してビルマの支配を受ける。しかし1589年、ナレースワン大王の時独立を回復。その後、17世紀のエーカートッサロット王、ソンタム王、ナライ王の時代には、アジアに経済的フロンティアを拡張してきたヨーロッパ諸国を受け入れ、アユタヤは交易都市として大いに繁栄した。1516年、当時グローバルな覇権を及ぼす帝国だったポルトガルと友好通商条約が結ばれたのをはじめ、オランダ・フランス・イギリスとも、香辛料・米・野菜を輸出し、近代兵器を輸入するなど積極的な経済交易が行われた。だが政治の面で内政干渉には強く抵抗し、欧州諸国同士を競わせてバランスをとり、1国のみの優越を許さなかった。日本との交易もあり、山田長政で有名な日本人町もあった。とはいえ国王の専売制のために利益が上がらなかったことは、欧州諸国に次第に不満を生んだ。これに対しタイは、1688年のナライ王死後、ヨーロッパ人排斥で応ずる。さらに1767年ビルマの進攻で、栄華を誇ったアユタヤは陥落し、各地の土侯は独立を宣言して、離反していく。

そんな中、アユタヤを離れたタークシン侯は、トンブリに都を築いて国内統一・領土拡大を行うが、1782年にチャックリー将軍に敗れる。彼はラーマ1世と称し、バンコクを首都にチャックリー朝を開いた。

タイは、日本とほぼ同じ19世紀の半ばに欧米列強との関係を持ちはじめ、今日まで一度も植民地支配を受けず立憲君主制をとっているなど、日本と歴史的な親近性が強い。ラーマ4世モンクット王の時、阿片戦争に象徴される英国の世界への覇権は、すでに東南アジアに強く及んでおり、1851年に即位した彼は、欧州文化に関心を持ち、西欧列強との開かれた外交による近代化を進めざるを得ない立場に置かれた(この過程を欧米人の目から戯画的に描いたのが、タイでは国辱とされるミュージカル『王様と私』である)。1855年に英国との間で、国王の貿易の独占を廃止した不平等条約である友好通商航海条約が結ばれたのを皮切りに、欧米各国と同じような条約が結ばれた。、英国側の条約交渉相手は、当時の香港総督ボーリングだったので、ボーリング条約と呼ばれる。日本とも1877年に友好通商航海条約が結ばれている。

1868年に即位したラーマ5世チュラロンコン王も、英・仏とのバランス外交の中で、奴隷制廃止や国防強化、行政機構の整備といった、チャックリー改革と呼ばれる近代化をさらに進めた。とはいえ、日本が鎖国を解いた直後から外国人技術者を高給で雇い、自律的な技術移転と「殖産興業」政策による自前の産業基盤の確立につとめたのに対し、タイの近代化は、自力の産業基盤を確立せず、欧米人や華僑が主にになう貿易に依存するもので、経済的には不安定であった。この初発の政策の差異が、その後のタイと日本との経済発展に大きな格差を作り出したと考えられる。

この頃イギリスやフランスは、資源を求めて東南アジアで植民地抗争をくりひろげていた。1867年には、それまでタイの王朝が支配していたカンボジアの宗主国をフランスとする条約がタイ・仏間で結ばれ、1887年には、山岳民族ホー族の反乱が起こったときに、フランスはラオス地方まで領土を広げて、ベトナムの拠点から支配するようになった。一方イギリスは1886年にビルマ全域を支配下に入れた。英仏はともに、陸路での中国進出のためにタイ領通過を必要としていたのだが、フランスのタイへの一方的進出をおそれたイギリスはタイの中立化をフランスに申し入れ、1899年同意にいたった。しかしフランスがその同意を無視する行動に出、実力行使にでたため、タイはイギリスに調停を依頼した。フランスはラオス全域を支配下に入れたものの、1894615日、英仏間で衝突を避けるため、タイ領土保全の協定が結ばれ、タイの独立主権は維持された。課題となっていた治外法権撤廃は、1907年にフランスに現在のラオスの一部となっているメコン右岸を渡し、1909年にイギリスにマレー半島の4州を渡すという、広大な領土割譲の犠牲を払って糸口が作り出されたものである。

1914年からの第一次世界大戦では、連合国側につくことによる国際地位の上昇を目指したラーマ6世は、1917年にドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告し、1919年のベルサイユ講和会議で治外法権全廃・関税自主権回復を主張し、1926年までに合衆国を始め各国と新条約が結ばれた。続くラーマ7世の時代、1932624日には、エリート官僚、将校グループによるクーデター「6月革命」が起こり、王権の元での立憲君主制が樹立した。

続くラーマ8世アナンタマヒドン王子の時代には、文官派のプリディーと武官派のピブンという2人の有力な政治家が存在した。1937年にピブン政権が誕生し、国粋主義にたってナショナリズムの高揚につとめる「ラッタニヨム運動」が行われ、国名は「シャム」から「タイ」に改められ、華僑の同化政策も進められた。また失地回復の動きも始まり、日本の調停でフランスとの間で、ラオス・カンボジアの一部を奪回した。このときお礼としてタイは満州国を承認しているが、日本のインドシナ進駐によりタイを巡って関係が悪化していた日・英に対しては、中立維持を何度も表明していた。しかし1941128日に太平洋戦争が始まると、日本の快進撃に伴ってピブンは次第に対日協力へと傾き、1221日には日・タイ同盟が結ばれ、翌年の125日には英・米に対し宣戦布告をすることになる。しかし日本軍が不利になるにつれてピブンへの信望も薄れ、1944年にピブン内閣は総辞職、アパイウオン内閣が発足し、プリディー摂政が最大実力者となった。プリディーは、内閣に対日協力を続けさせる一方で、日本が敗れたときのために自由タイの活動を推進した。自由タイは1941128日に駐米公使セーニー・プラモートが結成したもので、米・英への宣戦布告はタイ国民の意思ではないとする抗日地下組織で、1943年2月にタイ国内で正式に発足した。日本が無条件降伏するとプリディーは、対英・米宣戦布告の無効を宣言、アパイウオン内閣は対日協力の責任をとって総辞職するが、自由タイの活動が評価され、この宣言は連合国側に認められることになる。そのため、各国と結ばれた終戦協定において、タイは敗戦国とされずにすむことになる。

1945917日、セーニー内閣が発足、国王の権限を縮少し、民選による二院制を定めた新憲法が公布され、ソ連・中国とも国交を回復する。1946年にアナンタマヒドン王子がバンコクで射殺され、責任をとってプリディーが辞任したあと、現国王のラーマ9世プミポンアドゥンヤデート(写真: 国王即位50周年記念50バーツ札の一部)

が即位する。1948年には、クーデターによりピブンが再び政権を握り、国王の権限を強化し上院議員を勅撰にするという、旧体制を復活させた新憲法を公布する。1952年のサンフランシスコ講和会議で日本の外交が復活すると日・タイの国交も復活するが、日本が戦時中に借りた軍費である特別円返済問題は残った。ピブンは初め親米外交・反共路線を進め、1954年には東南アジア条約機構(アメリカの提唱による東南アジアにおける反共軍事・経済同盟)にも加盟する。だが、その路線は次第に変更されて国粋主義に傾き、工業における国家の役割を拡大するなどしたため国内で不満が高まり、1958年、クーデターによりサリット軍事政権の成立を招く。

サリット政権は国粋主義を批判し産業の国有化をなくして開発を進めたため国内経済は活性化する。だが他方で親米・反共路線を復活させ、ラオスの共産主義に対する防衛のためにアメリカと防衛協力を約束、国内に米軍基地が作られ、約5万の米軍が駐留することになる。また1961年には特別円返済問題が解決して、主としてタイの内需を目当てとした日本企業の進出が進む。

続いて1963年に成立したタノム政権は、サリット政権の路線を引き継ぐ軍事政権であった。この時代に米軍特需による消費景気ブームが起こって経済が急速に成長し、開発途上国のみによる地域協力機構である東南アジア諸国連合にも加盟した。インドシナ戦争が起こると、その拡大に伴ってタイにも共産勢力が進入、ゲリラによるテロがおこるようになる。陸軍によるゲリラ鎮圧が行われるものの、ラオスほどに激しい東西代理戦争の舞台となることはなく、ベトナム戦争の沈静化とともにソ連や東欧諸国、中国との貿易も再開した。1971年に憲法が廃止され軍部独裁になると、学生によるタノム政権批判が高まっていく。その不満のスケープゴートとして使われたのが、国民感情に訴えやすい日本であった。1970年代には、日本の経済進出に対して日本商品ボイコット運動や、福田首相訪タイ時には民衆デモも起こった。そして19731014日、学生デモと官僚の間に流血事件「血の日曜日」事件が起こり、タノム内閣は総辞職することになる。

続いて1016日に成立したサンヤー・タマサック政権は、国王の任命による16年ぶりの文民内閣であった。引き続き1975年には総選挙によりククリット・プラモート内閣が成立。彼は北京を訪問して中国との国交を樹立し、米軍の撤退を表明する。これによりタイの安全保障は弱くなり失業問題も発生するが、中国・ベトナムとの国交樹立には必要であった。米軍の撤退は、次のセーニー・プラモート内閣成立後すぐの19767月に完了する。8月にはベトナムと国交正常化に合意するが、106日タノム首相の帰国に抵抗した学生と治安部隊の衝突である「血の水曜日事件」がおき、それをきっかけに社会への危機感を持った軍部がクーデターでふたたび政権を奪取、その後タイでは軍事政権が続くことになる。経済的には、この軍事政権を背景に、日本や欧米製造業の直接投資が進み、輸出型工業化による経済開発の波に乗ることに成功する。

1988年、ようやく選挙で選ばれた文民内閣であるチャチャイ内閣が成立する。彼の経済拡大政策により経済は年10%以上の高成長を遂げ、輸出も20%以上伸びて、工業が発達して大規模工場が出現するなど経済構造も変化するが、汚職も多く生まれた。1991年に登場したアーナン政権は開発体制の方式を変えようとし、公正で効率的な政策の運営を目指した。1996年に成立したチャワリット政権は、バーツ急落や物価高騰、失業増加を批判する世論の高まりや、連立政権内部からの批判の声も高まったために、1997116日に首相が辞任して終わりを告げる。そして1115日には、タイ史上初の文民国防相となったチュアン首相による新内閣が発足した。しかしこの内閣も、与党の議席数が過半数少しと、不安定さを抱えている。(上東輝夫『タイ王国: 民族の伝統と外交の歴史』原書房、1982年;小野澤正喜『アジア読本タイ』;綾部恒雄・石井米雄『もっと知りたいタイ』)

戦後、タイの政権がめまぐるしく移り変わった中には、2つの座標軸があった。文民政権が汚職と腐敗により経済社会の合理性を損ない経済が停滞すると、反共・親米で特需や海外からの直接投資による経済浮揚を図る軍事政権が登場し、その独裁的政治体質に批判が強まると再び文民政権が支持を集める、という振り子運動と、バンコクを中心とした大都市での工業開発か、農村や地方中心都市に基盤をおく局地経済開発か、という振り子運動、の2つである。これが、タイの経済・社会をたえず軌道修正し、西側の軍事特需や投資を呼び寄せる一方で国民の統合をはかりながら経済・社会発展を図る方向に導いてきた。だが、その移り変わりがあまりに頻繁であったために、バンコクの都市交通問題、あるいは全国の高速道路ネットワークはいうに及ばず、電化鉄道が今日なお1mもない現状に見られるように、長期的なインフラストラクチュアの開発を阻んできた。バブル崩壊とIMFの支援は、投機で水脹れした経済の体質を改善するに効果があるとしても、インフラの欠如は、今後の長期的なタイの経済発展にとって、大きなボトルネックとなり続けるであろう。


さて、8月3日、私たちは、カンチャナブリKanchanaburiJEATH戦争博物館、泰緬鉄道とクワイ川鉄橋、そしてHellfire峠を巡検した。これらは、日本がかつて加えた、タイにおける第二次世界大戦の傷跡である。だが、東南アジアにおける大戦中の日本の行動には、二面性があった。一つは、これらの場所が象徴する残虐な軍事行動。しかし、その側面だけみるのは、十分でない。もう一つは、タイを取り巻く諸国を支配してきた欧州列強を駆逐し、独立を与えたことである。日本軍が侵攻する前、これら欧州諸国の植民地支配の下におかれたアジアの人々にとって、その植民地支配は永遠に続くもののように思われた。ところが、日本軍がくるや否や、その支配者は瞬く間に消え失せ、「独立」がわがものとなった。この体験は、ビルマ、ラオス、マレイシア、インドネシアなど東南アジアの各地で、民族独立運動の引き金となったのである。

フアランポン(バンコク中央駅)近くのホテルを朝7時半に発つ。チャオプラヤ川を渡ってトンブリ地区に入ると、高層ビルは消えた。バンコクは、ひどい交通渋滞のため都市内部の空間統合が破綻して都市が一つの全体としてまとまったシステムをなさず、バンコク全体の「近代的都心」といえる場所の焦点がはっきり定まらなくなってしまい,都心的機能が、渋滞があっても短時間で往復できる場所に数多く分散するようになってきた。また、都市外縁部(urban fringe)もまたはっきりしない。バブル最盛期のころは,利子がかからない自動車ローンで、中古車でもよければ月々分割払いで容易に自動車を入手できた。自家用車の普及とバス中心の都市交通で、電車がまったく役割を果たさないため、バンコク郊外の都市構造は、日本のようなセクター的でなく、むしろロサンゼルスのような鉄道沿線に拘束されない平面的な広がりとなった。

バンコクの周囲は水田で、埋めれば容易に住宅地を造成できる。このため住宅供給が大きく、狭いとはいえ25u程度のアパートならば家賃は月1,0001,500バーツ(約3.35千円)とそれほど高くない。一方、バンコクの巨大な人口集積が作り出す需要により、インフォーマルセクター(屋台など)に従事しても十分に稼げる。道ばたの屋台を経営すると1日約800バーツ、月24,000バーツ(約75千円)の収入があり、アパートなどを借りて十分生活ができる。

高速道路で郊外に抜けると、昔ながらの1戸建ての農家や寺院が目立つようになった。今でもタイのいたるところに広がっている景観だ。だが、その景観にも変化は確実に刻まれつつある。工場や、集合住宅が次々と建てられている。そして、車が通れるほどの舗装道路、バブル経済に支えられて作られた巨大なショッピングセンター。タイの豊かになった若い人々は、伝統的な屋台での食事を好まず、こうしたセンターに必ずあるアメリカ生まれのファーストフードチェーンに行く。そこでの食事は、むしろレストランに近い価格なのだが、こうしたチェーンに行くことが、若者のステイタスシンボルになっている。瀟洒な別荘らしい家が新しく建ち、そこにゴミが乱雑に捨てられている。もっとも、大量消費社会を象徴するこのきらびやかな世界も、バブルが崩壊した今では、困難な状況に直面していると思われる。

よく目に付く寺院は、以前は地域コミュニティーの中心として、教育福祉に重要な役割を担っていた。しかし、学校をはじめとする行政サービスの充実は、それら寺院の役割を変化させた。若い世代は農業に従事するより、工場に働きにでることが多い。

バスで約2時間半。着いたカンチャナブリは、人口5千の町である。軍事施設も多いが、この町を有名にしたは、何といっても映画「戦場にかける橋」だ。第二次大戦中のタイで、ビルマとタイを結ぶ鉄道(泰緬鉄道)を日本軍が建設し、クワイKhwae川を渡る鉄橋(実物の写真、映画のものとは違う)

を架けることになる。そのために捕虜が使われるが、イギリス人隊長が命令に従わない。初めは日本人隊長と対立するが、ジャングルの中の閉じられた場所で、次第にイギリス人は、進んだ技術を橋の建設に役立て、日本軍に協力する雰囲気が生まれてくる。最後には日本軍とイギリス人が対等に協力しあって橋は完成する。橋を爆破するために現地にやってきた連合軍兵士はその光景を見て驚く。場所における距離の近接性がつくりだした人間的協調、そしてその友好関係を象徴する建造物として、クワイ川鉄橋が目の前にそそり立っているのだ。だが、より広い空間にまたがって戦われる戦争という冷酷な現実は、その閉じられた場所に容赦なく押しかぶさり、鉄橋は無残に爆破される。この、空間と場所の食い違いが暴き出す社会と人間の本性。その弁証法を巧みに描き出すことに成功してヒットした映画のおかげで、カンチャナブリはすっかり観光地になってしまった。

泰緬鉄道は、タイとビルマを結ぶ軍事鉄道として、日本軍が19427月から194310月の、わずか13ヶ月で開通させた。当時建設されたのは、タイのノンプラドックからクワイ川沿いに北西に向かい、三塔峠(Three Pagodas Pass)を越えてビルマのタンビザヤまで、414.96kmの単線であった。戦後イギリスによって破壊されたため、現在は全体の1/2程度のノンプラドックからナムトクまでが、ナムトク線として使用されている。日本は、インド侵攻のための基地としてのビルマで戦う日本軍に陸路の補給路を確保しようと、19426月に建設命令を出した。「インパール作戦」のために工期の短縮命令が出され、1日平均890mが作られるという突貫工事が行われたが、インパール作戦は1944年に敗北に終わる。建設においては、「労働力・資材はすべて、南方占領地内から現地調達」という方針がとられ、日本軍1万人、連合軍捕虜5万5千人、アジア労務者(ロームシャ)が10万から25万人(ロームシャに関しては正確な数の把握はできておらず、実際には30万とも50万ともいわれる)が建設工事に従事させられた。ロームシャはビルマ・マレー・インドネシア・タイなどから強制連行された人がほとんどで、現在25万人がタイに残り、現地で結婚するなどして生活している。ジャングルを切り開き断崖を削る難工事だったことや、食料や医薬品不足、コレラなどの疫病によって、多数の犠牲者がでた。このため「死の鉄道」「枕木1本に1人が死んだ」ともいわれ、犠牲者の数は、ロームシャが3万3千人以上、捕虜も1万2千人以上とされる。(内海愛子、田辺寿男『アジアから 見た「大東亜共栄圏」』)

カンチャナブリにはJEATH戦争博物館がある。これは、過酷な環境のもと、日本軍が強制労働にかり出した捕虜の収容所を復元したものである。名前のJEATHは、戦争に関わった国(日本、イギリス、オーストラリア、タイ、オランダ)の頭文字からとったもので、捕虜の悲惨な状況を示す資料が展示されている。しかし気になったのは、ここに展示されているのが主に西欧人捕虜に関するものばかりで、西欧人より遙かに多くの、命を落としたタイ人をはじめとする東南アジアの人々に関する展示がないことだ。また、この場所が特に注目されているのは、映画のヒットにより、戦争の悲惨さを伝える象徴となったからで、このような捕虜収容所は戦争中、東南アジアの至る所にあったはずである。

旧泰緬鉄道クワイ川鉄橋(写真)のそばには駅があり、周辺はきれいに整備されて観光客目当ての土産物屋が軒を連ねている。ここには、戦争の悲惨さを実感させるものはほとんどない。ここにも、観光地化することで地元の経済が受ける恩恵と、戦争の悲惨さが見えなくなってしまうこととのジレンマが存在する。ビルマとの関係は、ビルマのASEAN加入や、ビルマとの経済的結びつきの発展(天然ガス輸入など)によって改善の方向に向かっているので、いずれは鉄道も再び開通するのではないかといわれている。

駅から500mほど入ったところには、戦時中に日本軍が建てた慰霊塔(写真)が今でもひっそりと残っている。鉄道建設に従事させられた人々の言語で慰霊の碑文が刻まれており、タミール語、ベトナム語もある。日本の敗戦後、アジアの各地にあった戦中のモニュメントのたぐいは大部分破壊・撤去されたが、このカンチャナブリにはなお残っているという事実が、タイの大戦中の日本への関わり方と、タイ人の日本に対する見方を物語っているように感じられる。

カンチャナブリからナムトクまで、旧泰緬鉄道に乗った。狭い車内であったがかなり混んでいた。おみやげや食べ物を売る人が回ってきたり、断崖の所(写真)

ではゆっくり走ったりとかなり観光化されていたが、地元の人の利用も多い。崖や川、草原の中をガタゴトと風を切りながら、気持ちよく乗ることができたが、ものすごい崖っぷちや、切り開かれた崖の中、見渡す限りの草原の中など、その一部に乗っただけでも当時の難工事ぶりが容易に想像できるものだった。

終点ナムトクの先には、鉄道線路の跡地が続く。それがよく復元・保全されているのがHellfire峠だ。これは、タイのオーストラリア商工会議所が、オーストラリア人捕虜の強制労働の象徴として整備したもので、現地にはオーストラリア商工会議所が作ったメモリアルプレートがはめ込まれていた。静かな森の中の、両方の崖が切り崩された廃線跡をたどってしばらく歩く。とぎれたレールが埋め込まれている。白人のグループを見かけた以外、観光化はほとんど進んでいないだけに、ジャングルの中の廃線跡が、当時の面影をよりはっきりと語っているようだった。先の捕虜収容所同様、オーストラリア人兵士は、戦争中多くの場所で死んだはずである。しかし、ここで死んだ69人のオーストラリア人のために、商工会議所がメモリアルを造ったということは、それだけこの場所が、オーストラリア人にとって、戦争を象徴する意味を持っていたことの証であろう。


84日、私たちは、西川寛様・服部英夫様はじめ、如水会バンコク支部の先輩方の好意ある取り計らいにより、タイ近郊の新興工業団地として、アユタヤAyutthaya県の工業団地に立地する日系企業2社を訪れることができた。

タイは、インドネシアに次いでASEAN2の経済規模を誇る。タイ政府は、電機・自動車等の産業に期待をかけ、外資に頼った輸出型工業化をめざしてきた。今から10年前、プラザ合意後日系企業の進出が急激に伸びはじめ、さらにはNIEs諸国・地域の企業も集中的に進出し、タイはASEAN地域で最も工業化の著しい国となった。市場も、従来の輸入代替を目指した国内市場型からグローバルな市場を志向する型、つまり輸出志向型へとタイの産業構造はいっそう変わり、技術も高度化がすすんだ。

ここ10年では日本の投資額が最高で、日本がタイの経済成長の牽引役を果たしている。こうした日本の直接投資は、タイの急激な工業化だけではなく、産業の高度化・高付加価値化にも貢献している。日系企業全体がタイの総輸出額に占める割合は20%を超えており、製造業に関しても全体の12.5%に拡大し、特に電気・電子機器製品類ではその中核を担っている。また雇用の面でも、日系企業で働く人はタイの全製造業就業者総数の5.6%を占める。データの年代さらに、日系企業に直接雇用されているタイ国民のみならず、タイ地場の企業でも日系企業と取り引きで間接的な雇用が考えられるため、日系企業による雇用創出効果はより大きな数字になる。人材の育成や、技術移転への貢献も少しずつ進んでいるようである。

もっとも近年、労働費高騰により、タイの国際競争力が急速に落ちてきた。食品・繊維など軽工業は、労働費がより低いベトナムや中国へ移る傾向があって、タイ自体が投資市場としての魅力をなくしてきており、今回のバブル崩壊に一つの引き金となった。

工業団地のあるアユタヤは、もともと豊かな米作県であった。土壌も肥沃で耕作地の大半が米作地域になっている。農業人口がここ数年次第に減少はしているが、依然として半数以上は農業に従事している。しかし1987年以降の急激な工業化ブームは、アユタヤの工業用地、工業団地用地の価格を急騰させた。1ライ(1ライ=0.16ha)あたり8,000バーツから80万バーツへと1年で100倍になった。工業団地建設に関して取り引きされる土地とカネは、米作を中心とした農業や農村での仕事を魅力のないものにする。消費生活も、前日観察したような、所得向上に伴う新しい大量消費様式が根づき始めた。今日のアユタヤでは、零細な地方工業・伝統的家内工業とローチャナなどの最新の工業団地が混在する景観を呈し、様々な意味での好対照を生んでいる。

工業団地の建設は、農村の若い人たちの意識を急激に変えた。教育制度の改革以上に工業団地造成の方が教育水準の底上げにつながるような場面も見られる。より高級化、日本化した消費様式はひるがえって、それまでの工業化における外国資本や技術の地位をますます高く、かつ不可欠にする。近年タイ政府投資委員会BOIは、農村開発の立場から、開発政策、投資政策において「工業の地方分散」「サポーティング・インダストリーの育成」を強調している。しかし、これは外国資本や技術の地方分散ということであって、既存の地方工業をどう振興するかという視点は極めて弱い。政府が進める工業化の担い手としてみたとき、地方工業の多くは零細で技術的にも著しく劣っているので、政策に取り込むにはふさわしくないとみなされている。こうして、人口の半分が暮らす農村・地方の経済発展、そして所得分配均等化の動きが望まれており、地方に工業団地の建設も相当進んでいるものの1人あたり域民所得でバンコクがタイ東北部の9倍という格差是正はなかなか成功せず、むしろ、近隣諸国の中国・ベトナム・ラオスなどへのタイ資本の進出が増えている。これまで、タイの地方よりも外国の資本や市場と密接なつながりを保持してきたバンコク一極集中型の特質が、ここにも見られる。

まず、午前中は、タイ味の素冷凍食品株式会社の工場を訪問した。

タイは、急激な電機・機械分野での工業化にばかりに目が向けられがちであるが、資源立地型の食料品生産加工基地という側面も見逃せない。エビや鶏肉は日本人の好物であり、その消費量が多大で、商社などによる開発輸入が始まったこともその要因である。しかし、資源はいずれ枯渇する。従来タイで多く養殖されていたエビ類も、すでに衰退し始めた。この時、日本企業はどのような経営戦略をとるだろうか。

タイへ進出して37年目、化学調味料のブランドとしてアジアでは知名度抜群の味の素は、アユタヤ県ハイテック工業団地に調理冷凍食品の製造工場を6年前に設立した。資本金は1500万バーツ(5億円)、味の素グループ100%出資の工場である。当初は水産物の原料立地として出発したが、今では、タイに蓄積されてきた技術力など地元に埋め込まれた場所の個性、すなわちembeddednessを活用し、原料をアジアの各地から確保することによって、現在の立地点での操業を続けようとしている。

この工業団地の場合には、その労働者の大半はアユタヤ県内の従業員であり、東北部、その他からの出稼ぎ労働者は比較的少ない。この工場への日本からの出向者は5人。現地従業員は200名程。その従業員のための社宅や社員寮が完備され、従業員は会社バスで送迎している。現在のタイでの法定最低賃金は1135バーツであり、ここの労働者の平均は日給300バーツで(1000)、月給7,500バーツ(2.6万円)である。このため、労働費から見る限り、人件費がタイの1/51/10というベトナム・中国がタイの強力なライバルだ。しかし技術力ではタイが勝っており、直ちにタイの工場を閉鎖して労賃の安い他国に立地移動するという判断は、タイ味の素ではしていない。だが、流通機構が整備されるにつれ労働立地が重視されるようになってくる長期的傾向はいかんともしがたく、タイ味の素でも、将来的には賃金の安い隣国のラオスやベトナムへの工場進出を計画している。

使用される原材料のうち、野菜は主にタイ北部で生産されている。契約栽培による安定した供給を維持したいところであるが、契約違反などのトラブルが多くその実施は難しい。また、日本人の嗜好にあった野菜をタイで作るのは、気候・土壌の制限からなかなか困難である。原材料は約1ヶ月を回転の基本的サイクルとしており、収穫が年1回のもの(タケノコなど)は通年でストックしてある。エビ等の魚介類はインドネシアやベトナムからサプライヤーを通して買ってくる。最近は比較的未開であったビルマのアンダマン海が注目を集めているが、水産物原料の確保は乱獲や水質汚染などの原因から次第に難しくなってきており、鶏肉へと製品の中心は移っている。鶏肉は牛肉や豚肉と違い、世界的に競える唯一の原料と食品業界では認識されており、タイへ進出してきた日系企業の工場でも、味の素のほか、ニチレイも、冷凍エビフライから冷凍から揚げへと生産の中心を移している。この工場で製造される冷凍食品の大半が、日本へ主に業務用冷凍食品として輸出され、タイ国内向けはほとんどない。このことは、工場の操業が日本市場の状況に大きく左右されるという弊害をもたらす。幸い現在は、タイ工場で生産している日本の一般家庭向け冷凍食品「やわらか若鶏から揚げ」がヒットし、骨の除去などに150名のパートを臨時追加し、24時間フル稼動生産の状態である。

工場内は、原料加工セクションと加熱加工セクションは完全に分離されている。これは生肉からの微生物などの汚染・感染を防ぐためであり、双方で働く労働者は工場に入ってから出るまで互いの接触がまったくない。亜熱帯タイでのバクテリアコントロールは、タイの国民自身にそうしたバクテリアに対する意識が薄いため困難であり、いかにして日本と同レベルの品質管理をしていくかがポイントとなる。そのため、日本の工場へも従業員を随時派遣して品質管理能力のレベルアップを図っている。

製品はトラックを使い深夜輸送。タイの道路は遠隔地でも比較的整備が行き届いているので、都市間輸送にはトラックが大変有効である。

冷凍食品は、価格がタイの所得水準からみて依然として高いため、そして一般消費者への電子レンジ・オーブンの普及が進んでいないため、タイ国内での反応はまだあまり良くない。しかし、最近は若者の「屋台離れ」が進んできており、タイの内需が拡大する兆しはある。内需を拡大できれば、日本市場の動向に工場の操業水準が影響されることは少なくなるが、相対的に高価な冷凍食品は需要の弾力性が高い奢侈品としてタイ国内市場で位置づけられざるを得ず、今回のバブル崩壊にみられるようなタイ国内経済の動きに操業水準が左右されやすくなる、という別の問題を抱えることになろう。

8月4日午後は、富士通グループ4社合同による株式会社、資本金10400万バーツ(約35億円)の富士通タイランド株式会社工場(写真)を訪問した。

タイの工業化のなかでもその中核をなす電機産業部門のこの工場は、敷地124,000u、富士通関連の工場としては最大の規模である。製品は100%輸出で、タイ国の輸出実績の向上を支え、タイ国の貿易収支改善に貢献している。工場はナワナコン工業団地に1988年に立地し、翌89年に生産開始した。ハイテク生産技術・品質管理技術・マネジメント技術および生産管理のEDP化などを採用して、タイ国の工業化に寄与している。また、環境保護の面で、ISO14001シリーズ取得に向けて環境対策マニュアル化を進め、「Harmonization with Nature」を政策の柱としている。

設立時、親会社に頼らない方針がたてられ、あえて借金経営でスタートした。長期的な経営の見通しが、それだけ確実だったのであろう。もっとも、土地建物だけを自社所有にし、それ以外の工場設備などはレンタルするという、経営のスリム化は忘れていない。主な取引銀行は東京三菱銀・第一勧銀・さくら銀などの邦銀で、地元の銀行は従業員の給与振り込みに使うだけである。売上高は1997年予測では370億バーツ(約1,000億円)に達する。94年以降ハードディスクドライブ(HDD)を手がけるようになり売上高は急増した。現在、出荷額にそのHDDが占める割合は75%にものぼり、99%は日本への供給である。とはいえ、HDDを別にすれば、工場では日本なら考えられない多角的な生産が行われていた。自動カメラのレンズ、プラスチック射出成型、電子機器の部品生産など、まるで、デパートのようである。これは、タイや近隣アジア諸国に供給される。

工場で用いられる原材料は金額で5割、数量で8割を現地調達している。HDDIC、金型など高度な技術を要するものは日本およびタイ国以外の日系企業からの輸入により賄っている。また、現地調達可能といっても、部品はほとんどタイ国内日系企業からの調達である。タイの現地の企業との取り引きは、品質面という点でいぜん課題が多く、現地企業をサポーティング・インダストリー(裾野産業)へ育成することは、技術力が要求される高度・高付加価値の加工型部品においてまだ困難のようだ。他方、同業種の現地日系企業との情報交換は親密に行われている。日本ではパソコンでライバルのNECでさえ、ここでは友好的な取引相手だ。安ければどこからでも買うという姿勢で、日本国内でのような閉鎖的なグループ・系列意識はない。BOIによれば、富士通はタイ国内で2番目の輸出企業である。製品の輸出先は日本・欧米諸国・韓国などのNIEs諸国ほか、多岐にわたる。

8,000人を超える従業員を抱えるナワナコン工場は、もともと富士通の工場平均規模である従業員4,000人を想定して作られており、これだけの数の労働者を管理し社内の規律を守らせることは日本と比べ難しい。難しさは、工場規模の大きさのほか、タイ人の国民性からもくる。

特に新聞に募集広告など出さなくとも、従業員はひとりでに集まってくるという。労働者の実に9割は女性であり、平均年齢は19.5歳。実際に工場生産に携わる職工(富士通タイランドのパンフレット所収の写真)

内では男女の賃金格差や待遇の格差はまったくなく、完全に男女平等である。労働者の入れ替わりは激しく、社員構成は入社1年以内が3,000人、12年が3,000人、3年以上が2,000人という割合である。職工の3年以内の離職率は30%ほどで、日本(23%)の10倍の高さである。このあたりは、中国の華南経済圏の状況とだいたい同じだ。一方、技術開発などに携わるタイ人として、多数の工業大学や専門学校出身者を雇っており、上に述べた高い生活水準を享受しているのは、まずこうしたタイ人たちだ。工業大卒技術者は慢性的に不足しており、これが産業の高度化を遅々として進ませない要因のひとつとなっている。技術者は中途採用が中心で、他社との引き抜き合戦が繰り返されている。こちらは約3分の2が男性。人材育成の観点から技術者は定期的に日本へ派遣され、2年間のプログラムで工業技術や日本語のレベルアップを図っている。給料は平均で職工が1ヶ月4,000バーツ、大卒技術系が1ヶ月16,500バーツ、そして大卒事務系が1ヶ月9,000バーツとなっている。そして職工と、それを指揮監督する「職制」の労働者の間には、はっきりとした立場の格差がある。このことは、日系企業の駐在員が雇う家庭のメイドについてもいえるということだ。職工たちの生活水準の基準は、あくまで出身の北部や東北部の農村地帯にある。タイ域内において、一人当たり域民所得で91程度もある空間的な都市と農村との所得格差が、バンコク郊外の工場内の社会階層や賃金格差に転置されて現れているのである。

社員寮などはなく、従業員は家賃2,000バーツ程度のアパートを、数人で借りるなどして暮らしている。この従業員を、会社が借り上げたバス88台で、毎朝夕、工場から約50km圏内で送迎を行う。日本人の出向者は家族のこともあり、バンコク市内に住んで毎日通勤している。

タイ人の従業員は、かつて日本人がもっていたよい性格を多く備えている。親兄弟・親類を大切にし、辛抱強く、大変器用で、さらに眼がとてもいい。そのため日本では機械で行うような生産でも、かえって人件費の安いタイでは相対的にコスト高になるので、できるだけ労働集約的な人手による生産方法をとる。生産過程のコンピューター化が進んでいないだけ、セットアップに費用と時間がかからず、かえって需要に応じフレキシブルに生産過程や製品を変更することもできる。機械化する場合でも減価償却の終わった機械を日本から持ってきて使い、コスト削減に努めている。作業工程は、日本の5分の1程度に細かく垂直分割されている。これは、労働者の入れ替わりが激しくとも、また新規採用者のトレーニングを容易にし、生産工程で突然あいた穴をすぐに埋めることができるようにするためだ。労働時間は基本的に7時から19時と、19時から7時の24時間連続操業の完全2交代制である。残業は平均月100時間。職工への福祉策としては、従業員本人のみに医療保険を適用し、会社では平均して一人当たり年3,000バーツ〜4,000バーツ程度の負担をしている。問題は、日本人従業員と比べたタイ人従業員のモラルの低さにある。監視がなくなると何かしらインチキをしたり、会社のものを勝手に持ち出したりしようとする。そのためガードマンを配置せざるを得なかったという。また、時間のスケールがのんびりしており,Just In Time生産方式のような日本的生産もなかなか馴染まない。原料の納期も日本のようにしっかりしておらず、当てにならないので、生産を継続させるためには1ヶ月ほどの在庫を抱えておかなければならない。これが、コスト増の要因となる。これに対応しようと、「Tarn Ta Wan(「ひまわり」)委員会という社内組織を作り、より効率的な生産・地域の原材料使用の増加・.経費削減 といった目標達成を従業員とともに促進させている。更に、「High Reliability Program」というのを作り、従業員同士でのグループ活動や、上司への提言活動を通して工場内で起こる問題のスムーズな解決を図っている。

最近の急激なバーツ安のため、同社は数億円の為替差損を被る見込みで、借金経営の身には大きな打撃だ。しかし、今後バーツがさらに暴落しなければ、下期は調達コスト安のメリットを生かしタイでの生産を増やすことで、’97年通期では、バーツ安による輸出メリットの方が大きくなり、それほど大きな影響は受けない、と見通している。

タイ国内市場の低迷はあるとしても、バーツ安による輸出価格競争力の回復から、同社は輸出にも意欲を見せる。東南アジア通貨の価値下落により、日本製のコンピューターを東南アジアへ輸出して現地で販売する事業は非常に難しくなった。これに対し、アジアでSI(システムインテグレーション)、ネットワーク構築など付加価値の高いビジネスを積極展開し、その落ち込みを防ぐ戦略がたてられる。現状では、通信ビジネス関連事業も、日本やオーストラリアから製品を供給しているのできついのは確かだが、将来的には必ず伸びてくる地域だ、と富士通の担当者は確信していた。

欧米系企業は給与勝負、実力主義を貫きとおし、経済・社会環境が悪化するとすぐに、従順な低賃金労働力や資源供給の拠点を求めて立地を移動させて行く。だが、日系企業はできるだけその進出した土地での信用などに補足されつつ、いったん立地した場所で根を下ろして行くことを考える。こうした欧米系企業の行動によって、グローバルな新国際分業の空間はフロンティアは次々と拡張させて行くのであるが、日本企業はあまりその尖兵に立たない。いったんある場所に拠点を持つと、そこでむしろ生産の組織のありかたを適切に変えながら、その場所にみずからを埋め込んで生産活動を続けようとする。この企業行動は、ある意味で保守的と見えるかもしれないが、そこには同じアジア人の華僑にも似たメンタリティーをみてとることもできる。また、タイに進出した日系工場の経営組織は、日本国内の組織と比べて簡略化され、個々の意思決定において東京の本社の指示をいちいち仰ぐ必要が少ない。このため、工場長は自分で責任もって仕事ができ、何にでも情熱を持って失敗を恐れずチャレンジできる。現地工場を管理する日本人社員のこうした本国からの自立心というメンタリティーにもまた、華僑のそれと共通するところを感じる。前日、中学時代の友人などをつれてチャオプラヤ川べりで私たちと交流の夕食会(写真)をアレンジしてくれたタイ国政府派遣留学生(東京学芸大附属高校3年)シッティコン君は、広東省汕頭出身の華僑三世だが、中国語はほとんど話せず、もうすっかりタイに落地生根している風だった。

今後の課題は、こうした企業行動を、どのように日系企業で働くタイ人にまで広げ、企業経営の現地化を一層進めて行くか、ということだろう。富士通でも、ここ10年で外資導入により急激な変化がおこり、工場管理の様々な点で問題が生じている。だが、問題に「どう対処すべきか」ということが、ベテランとよばれるような階層のタイ人社員でも十分できない。日本人についていわれる以上に、タイ人はこうした不確定な問題解決能力が総じて苦手であり、アレンジ能力に欠け、また「書く」ということも苦手であるという。更に、技術者の人材不足は深刻で、富士通など日系企業は、タイ政府から「人材育成のカリキュラム制作に協力して欲しい」と要請されている。

だが、こうした立場を、経済の論理と調和させるのは、言うほどに簡単でない。品質保証についてISO9002シリーズを19943月に取得するなど、「Reliability and Creativity」を推進し、グローバルな体制と資源を生かして、更なる収益性と成長性を備えたITカンパニーを富士通グループは目指すという。そのグローバルな生産空間の中で、ある程度成長を果たしたタイのような場所での生産は、今後どうしたら生き残り、さらにタイという場所に根を下ろしてゆけるのだろうか。中国に関しては、東南アジアと外資誘致で競合はしているが、中国はそれ自体が巨大な市場であり、現地生産される製品はほとんど現地で消費される。現地消費型の中国、高付加価値製品で再び競争力をつけ、輸出を志向する型のタイ・フィリピン、と住み分けは可能である、と富士通の担当者は考えていた。不採算部門はビルマ、ラオスや中国に持っていきつつ、成長過程にあるタイではそれに相応しくより高度な技術水準の製品を適地生産する。そして、これまでに築いた信頼関係に基づく取引きのネットワークを生かし、生産拠点としてタイが持つ魅力を今後とも生かして行きたい、と担当者は言い切った。こうした責任者がタイの現地企業で工場を動かしている限り、不動産バブルの崩壊で短期的に経済が行き詰まったとしても、このことを通じて経済が一層筋肉質に引き締まったあと、タイは長期的に、再び東南アジアでもっとも重要な、グローバル経済に向けた生産基地として、さらに発展してゆくことであろう。


 耕作放棄が目立つ山あいの水田を通り抜け、アユタヤ駅で乗った私たちの寝台特急(写真)

がチェンマイChiang Mai駅に到着したのはちょうど午前8時だった。列車から降りると、ホームの雰囲気が少しおかしい。ホームの客は、みなそれぞれの場所に直立不動のままじっと動かないでいるのだ。スピーカーから流れるのは、落ち着いてまとまった曲の中に「タイは平和を愛するが、闘うことになれば恐れはしない。独立は誰にも抑圧させはしない。国家のためにすべての血の滴を犠牲にする。タイ国に栄光あれ!」と宣言するタイの国歌。毎朝恒例の国歌奏楽の時間であった。

チェンマイは、バンコクから北へ約700kmに位置し、人口は約15万人である。歴史は古く、北部タイに栄えたランナー王国の首都として、1249年に築かれた。1556年にビルマの侵入でランナータイ王国は滅び、以後この地は、タイとビルマの間でフロンティアがせめぎあう場となった。最終的にタイが支配を確立したのは、1775年のことである。

一橋大学経済学部に学ぶタイ政府派遣留学生チャッカラパン君とそのお母様、そして御親戚の方の歓迎を受け、バスでまず市内から16kmほど離れた、海抜1080mの山、ドイ・ステープに向かう。

チェンマイの街は、北部タイ第1、タイ全体でも3番目に大きな都市であるが、バンコクのような喧燥さときらびやかさはなく、落ち着いた雰囲気がする。街の各地に、少数民族へのパックパッキングツアーや、欧米への直通ファクス・電話サービスを宣伝するゲストハウスの看板がみえる。チェンマイ地区の経済は、こうしてそのかなりの部分がグローバルな外国人観光客のモビリティによって支られえているのだ。ドイツ人やイギリス人はじめ多くの外国人が少数民族地区にトレッキングに出かけ、ジーンズやTシャツなどのグローバルな消費様式がそこに浸透していっている。

市内の山上には、ワット・プラ・タート・ドイ・ステープWat Phra That Doi Suthepがある。ここに来なければチェンマイにきたことにならないといわれているほどに、市内を一望する見晴し(写真)

がすばらしい。この寺院は、13世紀に、ランナータイ王国のクエナ王により建立された寺院で、チェンマイ市民の篤い信仰を受けている。

その後、チェンマイ大学内の政府機関である部族研究所で、Prasert Chaipigusit所長から、山岳少数民族のおかれている現状について、レクチャーを受けた。山岳少数民族は、74万人ほどいる。しかし、山の集落での生活は、ここ30年の間に、森林伐採の深刻化や阿片生産の制限・国境の政治的不安定性・生まれた村での人口増・食糧不足などから、年とともに維持が難しくなってきた。こうして、1万人が、・子供にきちんと教育を受けさせたいなどの動機もあって山をおり、都市で生活するようになっている。しかし、都市の職業につくには十分な技能がないため、給料が少ない重労働に携わったり、売春を行う者や麻薬におぼれる者も出るなど、社会問題化している。タイ政府は、山岳少数民族に対して、同化政策を基本方針として臨んできた。少数民族にタイ国籍を与え、その子供たちにはタイ人と変わらない教育を施そうとしている。政府は、少数民族の言語を禁止していないというが、学校で使用される言語は当然タイ語で、少数民族の言語が奨励されることもない。現在、60%の少数民族がタイ国籍を持つにいたっており、残りの40%も、現在申請中であるという。こうして、タイ人と変わらない政治的権利を少数民族に与えると同時に、経済の面では、従来の阿片生産に代わってトマト・ニンジン・エンドウマメなど市場向け高付加価値商品の生産を奨励するなどしている。また、都市部では、観光客を市場とした少数民族伝統工芸の土産品工場も設置されている。こうした政策は、少数民族とタイ人との経済格差を減少させることに効果があったというが、他方、少数民族固有の文化を破壊し、あるいは文化の商品化をもたらす効果もあることは疑いないであろう。また、伝統工芸品の原料を採取することで、森林破壊の問題も発生しているという。

チェンマイ大学は、緑したたる美しい広大なキャンパスである。学生はみな同じ、白シャツに黒ズボンまたはスカート姿だ。この校則で決められた服装が、タイにおいて大学生がもつエリートとしての地位を象徴しているのかもしれない。チャッカラパン君のお母様のご招待で、市内のホテルで昼食をごちそうになり、部族研究所附属博物館でさらに少数民族の生活を勉強したあと、私たちは大型のバスで再び北上をはじめた。

メーサロンMae Salong(サンティキリ)は、この大型バスを途中で乗り換え、小型のバン2台に分乗してに向かう。国境に近く治安が悪いために大型のバスだと襲撃目標にされやすいし、道が狭く大きな車両では立ち往生する可能性があるためだ。車は、急坂を上って行く。沿道には、焼畑農業のあとであろう、森が裸になった山々が続く。

他方、タイ政府は、1960年代にこれら国民党残党の難民としての地位を保証して以来、タイは雲南人である国民党軍とその家族を、タイ国に同化させようと取り組んできた。この地域を、阿片の地という古いイメージから切り離そうと、タイ政府は公式に、この谷の名称をメーサロンからサンティキリ(平和な丘)へと変更した。1980年代初めまで、荷役馬がメーサロンへの財を山へ上げるために用いられていたが、今日では、バサンからサンティキリまでの36キロある道路が舗装された。クン・サがビルマに撤退したことは、この地域の状態が変化し、タイ政府のメーサロンとその周辺地域の平定策が功を奏しはじめたことのしるしである。

オーストラリアで出版されたガイドブック(Joe Cummings, Thailand: Travel Survival Kit, 6th ed., Hawthorn, Victoria: Lonely Planet, 1995, pp. 459-461)は、メーサロン(サンティキリ)をこのように説明している。このことだけからでも、メーサロンは現在なお辺境の雰囲気を残しているように思えてくる。けれども、メーサロンへ向かう途中に観光客向けの看板が現われ、そこにはWelcome to Maesalongという英語とともに、「ようこそ」と日本語が書かれていた。それほど、日本人が多く訪れるということであろうか、それとも、お金がある日本人観光客を多く呼び込みたいということだろうか。いずれにしても、われわれが抱いている、だれも訪れたことのない、手垢のついていない、という辺境のイメージは壊れてしまった。いまや、「辺境」が、重要な観光資源なのである。

メーサロンの集落のはずれにある、コテージ形式のホテルに荷物を降ろして、さっそく集落の中心部まで歩いてみた。学校の運動場には、台湾にあるのと同じ標語が漢字で書かれたバスケットのゴールが建っている(写真)。

中心部には店舗を構えた商店がなん軒かあり、食料品や日用品が売られている。家の入り口には中国式に縁起の良い文字が掲げられ、居間には祭壇が設けられ、孫文の写真も飾られている。ちょうど夕食後の時間で、人々が居間に集まって衛星放送で中国の番組を見ているのが垣間みられる。それぞれの家庭にテレビが普及し、また車を保有している家も多く、この地方の中では人々の生活水準が比較的高い。雑貨屋で買い物をすると、店番のおばあちゃんは中国語を話すことができた。売られている商品には日本のメーカーの栄養ドリンクもありチェンマイなどの同規模の商店とくらべても遜色はない。赤い縁起物の紙片や線香が売られているのが特徴的である。

集落のはずれ、われわれの宿泊場所の近くには、製茶工場があり、台湾原産の品種のお茶が製茶されている。標高が高く気温が低くなることや、山地という地形から、お茶の栽培にも適しているのであろう。中国人が多く住むメーサロンには、お茶はふさわしい農産物である。ケシ栽培に変わる作物をいかに育てていくかも、この地方が直面している問題である。この製茶工場では、台湾原産の品種のお茶が製茶されているそうである。今日でも台湾の人々との交流があるのだろうか。メーサロンが、かつてのケシ栽培の拠点から、ケシに代わる代替作物の生産・加工の拠点へと変化しつつあることがわかる。

メーサロンは、中国国民党の残党が定着した集落としての特徴のほかに、この地域に点在する山岳少数民族の諸集落の中心地としての役割も果たしている。かつては麻薬王のクン・サがここを拠点として、周辺地域を麻薬の栽培地として組織していた。

朝と夕方には、道端に品物を並べたり簡単な机を出してその上に商品を陳列する市場も営まれている。私たちは翌6日の朝、早起きして朝市(写真)

を訪れた。アカ族の民族衣装を着た売り手が何人もいて、農・畜産物を持ち寄って売っている。メーサロンがこの地域の市場町としての役割を果たしているようすがわかる。ならんでいる商品は、鮮肉や、野菜、バナナや木の実などの農産畜産物、採取物など。日本のよりひとまわり小さいバナナが、竹を細く切った紐でぶらさげて売られている。1房5バーツであった。おそらく野生のバナナであろう、果肉が引き締まっていておいしかった。バナナの葉で包んだ緑色の豆もあった。別のアカ族の女性は、1つ20バーツ(交渉すると2つ30バーツに値引きしてくれた)のミサンガを売っている、5ミリくらいの大きさの小さな貝殻を並べて、細長い布に縫付けたものである。タイの奥地を訪れ少数民族の村へトレッキングをおこなう観光客にはいいお土産であろう。かく言う私も1つお土産に買った。朝市のすぐそばには、バックパッカー用のゲストハウスが建っている。麻薬の撲滅も進み、外国人も多く訪れるようになってきているようだ。

朝市を見学した後、私たちはメーサロンから徒歩と馬で、1時間ほどのアカ族の集落タムパット・メッテオTamupat Maetteo村を訪問した。途中、さっぱりした制服を着てメーサロンの小学校に向かう少数民族の子供達と行きあう。村の入り口に来ると、悪霊の侵入を防ぐ門(写真)

があった。

村内の幼稚園の掲示によれば、村の概況は下の表のとおりである。

戸数

58

世帯数

78家族

人口構成

176 165 341

幼稚園へ通園している子供の数

41 29 70

通園児が村の人口に占める割合

20.5%

私たちは、この集落の経済社会について、村人のAlang Hompokuさん(写真)から詳しい話を聞くことができた。

山岳少数民族は、タイ、ビルマ、ラオスの国境山岳地帯に点在して分布している。国内の交流はあるが、同種族であっても国境を越えてビルマ、ラオスとの交流はない。Alangさんはもともとビルマに住んでいたが、そこで迫害を受け、17年程前にタイ側へ移住し現在の場所に定着した。当時は1ヶ月くらいかけてばらばらに移住してきたが、現在は国境を越えるのが困難になっているために移住者はいないとのことである。婚姻は、同じ種族間で行なわれている。およそ1日かけて歩いて行ける範囲の集落に出向き、その村で1泊して嫁取りを行う。

村にはふたりの村長がいる。ひとりはタイの行政機構によって派遣される村長で、もうひとりは、ドイトンの町で開かれるアカ族の代表者会議で決定された村長である。このうち罪を犯したものの処分など重要なことは、後者の民族的に選出された村長が決定する。村民の意志は後者の村長選出の際に反映されないが、村長の決定と村民の意見が異なることはないという。こうした伝統的な村長が村の政治を司っているのに対して、知識人として保育園の先生の意見が権威をもって受け入れられることもある。この保育園の先生をしているという男性の話によると、ラジオの通信教育で勉強して先生の資格を得たという。月収は3,000バーツ得ている。

この集落では、17年前に焼畑をやめ、現在、米・トウモロコシ・家畜が主な産業である。米以外のものは、自給用として用いながら、同時にメーサロンの市場に出して現金収入を得ている。トウモロコシは年間5,0006,000バーツの収入になる。家畜として飼育している豚は大きいものは生きたままメーサロンの市場に持ち込み、1頭2,000バーツになるという。そのほかに現金収入を得る方法としては、野生のバナナなどの森の産物を売ることにより、不定期ながら年間1,000バーツ程度の収入になる。雇用されて畑仕事に出ると、1日当たり40バーツの現金が得られる。商売をしている人は毎日、メーサロンの市場へ商品を持っていく。普通の人は、4〜5日に1回の頻度で出る。私たちに話をしてくれた村人は、チェンマイには一度も行ったことがなく、訪問した経験は、チェンライとメーチェンどまりである。家の脇にビニール製のパイプが積んであるのが見られたが、これは1本130バーツのパイプで、ここには1万バーツぐらいがあるという。このパイプは稲作の灌漑に用いるための農業資材であり、タイ政府から農業を定着させるための補助として提供された。これとは別に、自らも資材購入のために3000バーツ程度を年間投資している。このように、この集落は完全な自給自足なのではなく、朝に見学したメーサロンの市場などで商品を販売して現金収入を得ているのである。

水は、各家がそれぞれ持つ井戸から得ているが、村全体でも井戸を掘って幼稚園などに供給している。ちょうど私たちが訪れた8月の、23日には電気も来ることになっていた。こうした近代的なインフラストラクチャーが村に導入されると、生活様式も次第に都市でのそれと変わらなくなっていくだろう。電気が引かれても当面は電灯ぐらいしか用途がないだろうが、生活水準が向上するにともなって多くの家電製品を購入することが可能になる。電気が引かれると家電製品への購買意欲を促す。そうなれば、今まで以上により多くの現金収入が必要となり、いまはまだ自給自足の面影を残している村の経済構造は変化してしまうことが容易に想像できる。

幼稚園が設置され電気や水道が開通し、ある程度のところまでは村にいても経済的な向上が期待できる。だが、家庭で飼育した豚や森の野生の果物を販売しているようでは、おのずと発展にも限界がある。タイの工業化は、山岳少数民族にも、きちんとした教育を受け、都市に人口移動すれば、タイの労働力市場でより豊かな経済的機会を獲得できるという誘惑を生み、少数民族を一層、言語や文化の面でタイ社会に同化する方向へと向かわせている。村には、立派な50平方メートルほどの広さのコンクリート製の立派な幼稚園があり、タイ語の教育が行われている。小学校から高校まではメーサロンの学校に通学。中学校まではほとんどの子供が進学し、1996年に初めて高校進学者が出た。子供の就学には、学費が年間200300バーツ要る。さらに村から学校のあるメーサロンまで車で送り迎えを受けた場合、片道1回2バーツかかる。1家族に子供がたいてい78人はいるので、皆が学校へ通うとかなりの経済負担になる。しかし、親は就学を勧める。子供たちが学校でタイ語を習得することを喜んでいて、親である自分はアカ語しか話せないが、時々子供からタイ語を教えてもらうことがあるそうだ。子供達は、小学校でタイ人に混じってタイ語を勉強し、高校を卒業して、将来はバンコクで仕事に就くことを夢見ている。このように、村人たちは、経済的なインセンティブにより、タイ政府の定める制度化された教育をつうじて、タイ民族社会への統合を自発的に望むレベルに、すでに来ている。

だが、このタイ民族への統合という志向は、文字を持たないアカ語やアカ族独自文化に対して否定的な影響を与えるだろう。この集落には、8月のぶらんこ祭、9月の悪霊払い、12月の独楽遊びなど、アカ族独自の伝統的な行事がまだ伝承されている。しかし、若い人たちは着にくく活動しにくいと民族衣装をうち捨て、服装はジーンズやTシャツ姿に変わっている。タイの国民経済への統合は、同時に、多数民族であるタイの言語への、そしてアメリカ合衆国を頂点とする文化への統合とパラレルに進行しつつあるのだ。大きな都市へ出て就業するには、タイ政府の許可証が必要であるが、そのためには市民権を獲得しなければならない。この村では、許可証を持っている人はまだ少ないというが、いずれ増えてくるだろう。こうしてこの集落も、やがて若い人々がみな流出し、過疎化の運命をたどるであろう。

そうした中でもし、なおアカ族の文化・習慣が残されるとしたら、ショー化され、観光客を対象とした「生きた博物館(あるいは人間動物園)」としてであろうか。あるいは今日日本の村祭の多くがそうであるように――自動車でお神輿を運び企業から社員が動員されるというかたちで祭自体は存続している――近代化されたかたちで再生産されていくのであろうか。


メーサロンを発ち、私たちは、タイ最北端の街メーサイに向かった。目的は、ここからビルマ領の街タチレクTakhilekを訪問するためである。タチレクは、タイ側の国境でパスポートを預け、ビザなしで入国することができる。観光客にとっては軍事政権が依然として国を閉ざしている「未知の国」ビルマを気軽に体験できる。しかしそれ以上に、中国とタイの経済フロンティアが互いに接する場所であるビルマの国境が比較的自由にタイ側に開かれた場所であることに目を向けて、私たちはタチレクを観察した。

国境(写真)となっているサイ川の短い橋を渡っただけでも、タイとの文化や風習の違いがはっきりとわかった。インド人の姿が見られたり、キリスト教の大きな教会があったりなど、かつてイギリス植民地だった影響がいくつか残っている。入国の事務所で、管理官が気軽に日本語で話し掛けてきた。単に日本人の旅行者が多いというだけでなく、ビルマ人の親日感情も背景にあろう。ビルマ人は、イギリスの植民地支配に対して良い感情を持っていない。イギリスは、武力で当時の首都マンダレーを占領し、国王をカルカッタに追放して、長い歴史と英華を誇ったビルマ王室を断絶させた。その後、インド植民地の一部としてビルマを統治し、ビルマ独自の民族的伝統は蔑まれるようになった。伝統的な寺院での教育の制度を解体し、イギリスの制度による小・中学校を作ったが、そこに通うことのできたビルマ人は第2次大戦直前でも4.9%に過ぎず、多くのビルマ人は、家畜並みの愚民と扱われた。日本もかつて朝鮮半島に対し似た行為をしたことに思い当たるが、朝鮮の小学校就学率は、植民地統治の末期1943年には90.8%に達しており、アジアの植民地のなかでもっとも教育制度が完備していたことも、忘れるべきでない(『産経新聞』1997年12月4日号)。この高い教育水準が、戦後、韓国・台湾がNIEsとして経済発展するため積極的に寄与したことは、疑いなかろう。ビルマに対して日本は、戦時中、ビルマ人が忌み嫌った植民地支配者イギリスを追い払い、いまなお民族独立の父としてビルマ人の尊敬を集めるアウンサン将軍の指導の下で独立させた。軍事政権と対決するスーチー女史は、その娘である。このため、ビルマ人は多く、日本に対して今でも好意的な感情を持っている。

タチレクでは、タイの通貨バーツがそのまま通用する。けれども商品の多くは中国製である。漢方の材料としてさまざまな動物の角や骨を売る商店や、中国製の腕時計・アクセサリー・ラジカセなどの電化製品を売る店が目についた。香港返還のシールを貼ったキーホルダーを、ゴールデントライアングルにほど近い辺境でみることができるとは思いもよらなかった。大きな蒲団の包みを担いで中国からやってきたという商人も見かけた。タイ国内で中国製品を見かけることはほとんどないから、ビルマが中国の経済圏に取り込まれつつあることがわかる。中国系イスラム教徒のモスクもある。もともとビルマは社会主義国として国家建設を進めてきたので、中国とは政治的、経済的な関係が深い。また同じ社会主義国であってもヴェトナムは、中国とは冊封を受けていたことから民族的な対立もあり、またソ連寄りだったこともあって、のちに中越紛争に発展し、経済的な浸透に対しても警戒が強いが、ビルマについてはそのような対立関係が見られない。こうした経済関係がタチレクの市場にも表われている。

もうひとつタチレクの特徴として、日本などでは法律に抵触するであろう商品が、堂々と売られていることである。先に述べた、腕時計・アクセサリー・電化製品のほとんどは、コピー商品だったりイミテーションだったりする。チャッカラパン君も、タチレクでは安くブランド品のコピーが入手できるという話をしていた。タイからコピー商品やイミテーションが追放されると同時に、タチレクがそのメッカとしてタイ国内にも知られてきていることがうかがえる。刃渡りが長く、胸を一突きすれば人を容易に殺せそうな大型のナイフも、店頭に並んでいる。タイでも屋台などでコピー商品が売られてはいるが、何度も規制が行なわれて次第に見かけなくなってきている。また、明らかに売春宿と思われる施設もあった。

タチレクを後にして、私たちはゴールデントライアングルを目指す。ゴールデントライアングルとは、広義にはタイ、ラオス、ビルマの国境地帯一帯をさし、ケシの栽培と麻薬取り引きを連想させる。だが、日本のガイドブックに載っている「ゴールデントライアングル」はタイのソプ・ルアクという村にあって、この三国の国境が1点で接する場所を望めるただのトゥーリスティなスポットに過ぎない。

土産物屋の前でバスが止まった。メコン川端にゴールデントライアングルの碑が立つ場所から国境の接する地点を望むと、はるかに見える、メコン川とその支流のサイ川の合流点が、三国の国境が接する地点である。右岸がタイ、中州のように見えるところがビルマ、メコン川の左岸がラオスになっている。むろん、実際にその土を踏むことはできない。けれどもビルマとラオスはともに、外国人の旅行がタイほど容易でないから、タイ側からそれを眺めるだけでも観光地になるのである。

ソプ・ルアクには、観光客を目当てとしたホテルやお土産物屋がメコン川に沿った街道沿いに立ち並んでいる。高速艇やボートでメコン川を遊覧して国境の接する地点まで行くこともできるらしい。そうした業者の看板も目を引く。また麻薬の中心地というイメージを反映して、お土産物屋には、アヘンの吸引用らしく見えるパイプ(本物かどうかわからないが)やケシ、アヘン中毒者をテーマにした絵葉書などが売られている。けれどもここは、そうした「危険さ」「怪しげさ」を、観光客向けの売り物にしているにすぎない。

中州のように見えるビルマ領内には、緑の中に赤い屋根の建物が見える。真新しい賭博場の建物である。ビルマ領にカジノ・ゴルフ場・ホテルなどを組み合わせたリゾート開発を行なったもので、タチレクでもみたが、ここにも国境に隣接する場所にタイ国内では禁止されているカジノがある。もっともこの計画は、タイとミャンマー側の利益配分などの調整に手間取っていて、なかなか開業することができないでいるらしい。

国境は、異なる政治体制の明確な区切りを示す。これに対し、資本も人間も、その行為空間は、国境が人々の移動を妨げない限り、この区切りを乗り越えて他の領域へと広がって行く。タイやその他の外国人が自由に移動できる行為空間の連続性の下に、国境で政治的に隔離された複数の場所があれば、より規制の少ないある政治制度の領域で、これとは別の規制の強い領域でできない行為を行う、という経済的機会が生じてしまう。むしろ、経済の発展がまだ低い国では、道徳的な規制をゆるめることが、この経済的機会から最大限の利益を絞り取る方法となる。この空間の連続性と隔離との弁証法を、社会主義ビルマのタチレクでも、そしてゴールデントライアングルでも、私たちは目のあたりにすることができた。

ソプ・ルアクを過ぎてチェンセンに差し掛かる。ここはメコン本流に面するタイの北部の町であり、国境貿易の港である。船付場には中国の国旗を掲げた船が停泊していた。ここからビルマとラオスの国境地帯を抜けて、中国の景洪まで船が遡上することができる。近い将来、外国人も、ここから船で中国に入国することが許されるようになるだろう。

私たちは小さな町チェンコンChiang Khongで出国の手続きをした。ここは、メコン川がタイとラオスの国境になっている。対岸はラオスのフエイサイである。出国手続きといっても、船付場へと下りていく坂道の途中に小さな出国管理所の小屋があるだけだ。立ち上がると転覆しそうな細いエンジン駆動の渡し船(写真)で、約5分とかからずフエイサイに着く。


フエイサイHuay Xaiは、タイからの渡し舟がつく港を中心に商店が集まる国境の町とはいえ、チェンコンとおなじメコン川沿岸のほんの小さな田舎町にすぎない。夕方の、のんびりした時間帯だったせいもあるかもしれないが、イミグレーションの役人もゆったりと仕事していて、通りもどこか間の抜けたような平和な空気が漂っていた。ここのラオス側の入国管理事務所は午後4時30分で閉まるからそれまでに入国しなければ、と慌ただしくやって来た私たちをよそに、ラオスの時間は隠やかに流れていた。地理学は、それぞれの場所・時代はそれに固有の時間と空間をもつ、と説いている。このことからすれば、ラオスの時間は、秒単位で流れる日本のそれとも、タイのそれとも大分異なるようだ。日本に比べれば東南アジアの国々の時間スケールはどこものんびりとしているが、その中でも時間単位でのんびりと流れるひときわゆったりとした雰囲気が、これから始まる「不思議の国ラオス」への訪問を実感させる。

ラオスは日本では余り知られていない国のひとつである。ヴェトナム、カンボジアと共にインドシナ3国としてとりあげられることはあっても、ラオス単独で脚光を浴びることは少ない。ラオスの正式な国名は、「ラオ人民民主共和国」Lao People's Democratic Republicという。ラオスの「ス(s)」は、ラオの複数形としてフランスがつけた植民地の遺産である。国土は日本の本州と同程度。そのうちの80%は山岳高原地帯、人口は約500万人。北は中国とビルマ、南はカンボジア、東はヴェトナム、そして西はタイに国境を接する内陸国である。山岳地帯という地理的要因と相まって昔から地方割拠性が強い。山岳高原地帯は、民俗学的に地球最後の研究の宝庫といわれるほどさまざまな民族が存在している。

フエイサイは県の人口約15万人、人々の年間平均収入180ドル、最近まではこの地方の局地的経済活動だけを担ってきたにすぎず、通りを歩いても外国人がそこら中にいるわけではない。しかし新しい建物が建ち始め、、華僑の経営すると思しき商店も目に付く。現在国境地帯の観光開発を推進するため、タイ、中国、ラオス、ビルマ4ヶ国は、これら4か国を結ぶ環状道路整備を決定(写真)している。この道路のルートとしては、タイ北部のメーサイからミャンマーのタチレク、ケントゥンを経て中国の景洪に至るルートと、タイ北部のチェンコンからラオスのフエイサイ、ルアンナムタ、ボーテンに至るルートの二つが考えられている(『日本経済新聞』1993年8月12日)。もしフエイサイ経由のルートが建設されると、この小さな田舎町は中国とタイを結ぶ主要交通路のメコン川の渡河地点となり、国境貿易のひとつの拠点として大きく発展する可能性を秘めている。ラオスは、ちょうどメコン川が「国土軸」に相当する位置に流れていて、メコン川の水運がいまも重要な空間統合の手段だから、中国とタイとを結ぶ道路が完成すれば、フエイサイは、国際的な幹線交通とラオス国内の幹線交通との結節点となりうるであろう。フエイサイの集落のはずれには道路計画の地図が掲示されていた。この町が今後どのように姿を変えていくか、興味深いところである。

フエイサイで、朝と夕方に市がたつというので、宿のオーナーの息子さんにトラックで連れていってもらった。町の中心からそんなにはなれていないどころに大きい壁のない倉庫のような建物があり、その中や周囲にお店が出ていた。売られているものは野菜や魚、豚などの食品、洗剤や衣服、その他ノートやらカセットテープやら多種多様なものが並んでいた。見てみるとノートなどはタイ製らしく、ほかにもタイからの製品が多かった。タイの経済空間が、しだいにラオスをフロンティアに取り込んでいるありさまがみてとれる。私達は、そこでピーナッツや焼き豚など買ったが、英語は通じなかった。タイでは、たいていどこの市場でも一人ぐらいは英語を話せる人がいて、複数の店で通訳のようなことをしていたのだが、ここラオスではまったくだめだ。ラオスの公用語はラオ語である。これはタイ語と非常によく似ており、タイの北部の方ではラオ語を話す人たちもいる。文字もタイ文字に少し丸みを持たせた感じで、私達日本人にはほとんど見分けがつかない。通訳として来てくれた留学生チャッカラパン君に言わせると、ラオ語とタイ語の文字は日本語と中国語の漢字の違いと同じくらいに違うらしい。だからタイ人の彼は、ラオ語をみると大体の意味はつかめるが、細かいところまではわからないといっていた。私たちには、ラオ語もタイ語もまったく同じように見え同じように聞こえ、しかもラオスの市場に来ると英語が通じない。このことが逆に、私たちにとってラオスとタイとの場所の違いを実感させてくれる。 

翌8月7日、私たちは早朝に宿を出発し、メコン川を高速艇で約6時間、途中休憩をとりながらルアンプラバンLuang Prabangへと向かった。今日のこの行程は、私たちの巡検最大の難関と予想されたが、同時に非常に貴重な経験であった。ラオスは道路網が未整備のため、一般のラオ人の多くは、フエイサイとルアンプラバン間が1日半かかる遅い船でのんびりと移動する。この、ラオスという場所に固有の時間スケールを大きく革命したのが、この高速艇だった。料金はフエイサイからルアンプラバンまで約4000円相当と飛行機並み。そして東京・名古屋間に相当する距離を、日本の高速バス並みの6時間で通過する。船体は、タイのナコンラッチャシマにある遊園地「フンアロイ」(「おいしい楽しさ」というような意味)の池に浮かんでいた5mたらずの中古手漕ぎボートで、屋根も手すりも何もない。これにヤマハの強力エンジンをとりつけ、時速100km近くでメコン川を飛ばすのだ(写真)

。 中国製で有視界飛行の、いささか不安なラオ航空の小型機以外、これが唯一のフエイサイ・ルアンプラバン間の高速交通手段である。ラオスでは、フランス植民地時代から河川が大量輸送の主要な手段であった。これが、独立後半世紀近くたった現在も、変わっていないのだ。アメリカ合衆国が、ベトナム戦争のため費やした莫大な資金をラオスのインフラ整備のため平和的に使っていたなら、今ごろここには立派な道路か鉄道ができていたかもしれないのだが……。

出発前、船着き場の移民局でパスポートのチェックを受ける。移民局で働いている職員は本当にのんびりしたものだ。彼らは国家公務員なのだが、給料が安く、たいてい家で他に仕事を持っているので、規定の8時を大分過ぎて出勤してきた。パスポートを見て氏名と番号を記帳した後、小さな紙片にスタンプを押して渡してくれた。陸上からメコン川に浮かぶ船だまりまでは、道が整備されておらず、ぬかるみの急斜面を荷物を担いで降りて行く。私たちは、万一転覆しても岸に泳ぎ着きやすいよう短パンにはき替え、救命胴衣を着けて、高速艇に乗り込んだ。

フエイサイを出たボートは、猛然としたスピードでルアンブラバンヘと向かいはじめた。向かい風と振動そしてエンジン騒音がすさまじい。メコンを切り裂いて進むボートの船首が楔のように、穏やかに流れるラオスの時間のなかへグローバルな経済と社会の急速な時間のスケールを裂き込んでいく。雨期のメコンは流れも速く、水面は想像以上にぽこぼこと波打っている。だが慣れてしまうと、その振動が逆になかなか楽しくもなってくる。 

メコン川はフエイサイからしばらくいくと、タイとラオスの国境が南の稜線に折れて行き、メコン川は国際河川からラオスの国内河川へと姿を変える。その境界にあるパクタ村Muang Pakthaで高速艇はいったん港に入り、移民局で再度パスポートのチェックを受け、紙片にスタンプ(写真)

をもらう。ラオス政府は社会主義政策をとっているため、こうした外国人に対するチェックは細かい。ラオスの入国ヴィザを日本人がとるのも、個人ではなかなか厄介だ。現在のラオスの観光政策は、まだ社会主義的である。タイのようなマスツーリズムを志向し、国土や国民をパックツアー客の奇異の目に広くさらすようなことはしない。ヴィザは、日本で普通にとると代理店経由で2万円もするし、タイでとっても1万円近い。私たちは、手配を依頼したビエンチャンの旅行社Diethelm Travel Laosから東京のラオス大使館あて公電を打ってもらい、13,600円で取ることに成功した。こうした状態では、資金も情報も貧しい日本人学生のバックパッカーは二の足を踏もう。かといって金持観光客が魅力を感じそうな高級リゾートホテルは、まだラオスにない。「退廃的」で社会主義思想に悪影響を及ぼす旅行者数をできるだけ絞り、かつ同時に観光収入を極大化しよう、という戦略なのだろうか。たしかに、外国人観光客が少ないだけ、人々は「すれて」おらず、「素朴な人情」というラオ人に埋め込まれた民族性を一つの観光のうりにできる。だが、「素朴な人情」は、もともと売り物ではない。それが成立し再生産されている過程を無視して外国人観光客の消費対象となったとたん、観光商品として物化されて、生活そのものにねざす諸過程から、そしてこうした「人情」を持つ人々自体から、埋め込まれていた民族性が疎外されてしまうのだ。

高速艇に揺られる(それは揺られるなどとなま易しいものではなかったが)こと3時間ほどで、私たちは山間の市場村パクベンPak Bengに到着した。この村はメコンの船着き場から100メートルほどに食堂・ゲストハウス・商店などが並び、その奥に市場や集落、そして学校があるだけの、本当に小さな町である。ほとんどの建物が平家かせいぜい2階建てで、道路は舗装されていなかった。ここでは自動車の代わりに馬が主要な運送手段である。電気は自家発電で、午後6時から9時まで供給される。テレビを見られるのも、この3時間だけだ。商店の店先にはヴェトナム製の洗剤やプラスチックの盥、ビニル袋に詰められた塩、その他の日用品・雑貨品が並べられていた。なかには「味の素」、「味宝」といった化学調味科の袋も多く積んであった。洗剤以外の雑貨には、タイから輸入されているものが多い。塩はkg単位で売られ、小分けはされていなかった。村の倉庫にはその塩が12kg1袋に、麻袋に詰められて保存されている(写真)。

12kg1世帯の23年分の消費がまかなえるという。塩は人間の生存になくてはならないため、このような隔絶された場所においては多量の貯蔵が必要となる。これを仲買人が、小分けにしたりして、周辺の、主としてモン族の村にうりに行く。山道を歩いて往復6時間もかかることもあるという。

このパクベン村の市場に23日に一回、少数民族であるモン族の商人や農民がやって来て農産物を売り、日用品を買って帰っていく。たまたま私たちが訪ねた時に彼らが来ていて、話を聞くことができた。このあたりは阿片栽培が世界的に有名である。しかし、もう阿片の売買はやっていないようだ。現在、おもに取り引きされる商品は豚である。彼らには、取り引きに際してあまり時間の観念がない。何日に1回というように定期的に市場にやって来るのではなく、商品があると市場にやって来て、売れるまでしばらく滞在して帰っていく。この豚は、もともと商品にするよりもモン族の農民が自分たちで消費することが多いらしい。そして何か必要になった時に、農民が自分で豚をつれて市場まで下りてくる。商売相手は、タイからやはり不定期的にやって来るタイ人商人である。豚の値段は大きさによって決まる。まず縄を豚の胴体に一巻きする。次にその一巻きの半分の長さをこぶしいくつ分というふうに数えて値段が決まる。ちなみにこぶし1つ分は約500バーツだった。そうした農民たちとは別に、もっと短いサイクルでモン族の商人たちはこの市場に下りてきて、石油・酒などを買い込み、自分たちの村に持っていって売る。売りあげは週に6,000キップ(約9キップ=1円)、月で30,000キップだが、余り安定していないらしい。彼らと私たちとは時間や金額のスケールの細かさが違うため、私たちの細かい質問に終始困ったような顔をしていた。

その後、私たちは村の小学校(写真)

を訪問した。建物は簾で囲まれた、貧弱なもので、前日タイで見たコンクリート造りと比べかなり見劣りがする。夏休みのため教室の机は隅のほうにかたづけられており、授業の様子を見ることはできなかった。パクベン村のような村が2、3共同でこのような小学校を運営している。先生は村の有志が勤める。村の若者を教師にするために都会へ留学させたりするが、そうして高い教育を受けた若者は村に帰るよりも都会でより高収入を得ることが可能なため、行ったきり村に帰ってこない。こうして、パクベン村の小学校は深刻な教師不足に悩まされ続けている。こうした教育水準で、前日訪問したアカ族の村のような工業化の担い手となる労働力を作り出すことは、まだかなり困難だろう。

パクベンに2時間ほど休憩した後再び高速艇に乗り込み、私たちはルアンプラバンを目指した。ルアンプラバンに近づいた頃、メコンの右岸に大きな断崖が現れた。断崖の中の深い洞窟の暗やみの奥には,たくさんの仏様(写真)が静かにたたずむ、ピンオー洞窟

である。現在はただの観光地で、ルアンプラバンの港からもボートが出ているが、1975年の革命前、このピンオー洞窟はルアンプラバンの王に忠誠を誓う重要な祭祀の場として、王族のさまざまな儀式が執り行われていた。普通なら華やかなはずの最高権力者の儀式が、このような場所で厳かに行われていた背景には、精霊信仰の姿が色濃く見える。そのころ官僚は、新任されるとこのピンオー洞窟を訪れ、王家への忠誠を誓ったという。篤い信仰を持つ周辺の農村が王室からの信託を受けて、特に手入れする役割を担っていた。しかし、革命後はこうした慣習もなくなり、洞窟の仏たちは荒れ果てて痛々しい姿をさらしていた。


私たちが使った高速艇は音がうるさいため、中心から少し離れた港についた。ルアンプラバンは、日本で言えば京都のような町である。町並みは、ユネスコの世界遺産に指定されて国連の保護を受けている。王宮の裏手に当たるメコン川岸には、かつて王族専用だった港と、フランス政府専用の港、そして旧ラオスの国章を掲げた旧税関の建物が今でも残る。かつては、メコン川に面したこの周辺が、ルアンプラバンの政治・経済の中心だった。いまでも港からは、メコン側を往来する遅い貨客船や、観光用ボートが発着する。これらの港を中心にしてメコン川沿いには旧フランス関係の西洋風建物が残り、ホテルやレストランとなっている。当時のフランス人たちの自宅は、もう少し内陸の方にあり、リセ(高校)も設けられていた。フランス人が撤退すると同時にラオ人が住み着き始めたようだ。現在は世界遺産のため、これらの住宅の売買はできない。だが、ラオスでは革命後も土地の私有が認められていて、世界遺産指定以前には住人同士で売買されていた。ラオスでは政権の入れ替わりが激しかったために公的な権利書が紛失するケースが多く、このフランス人住宅街の家はかなり勝手に取引きされていたようだ。革命後は、共産党官僚が住むようになり、商店が点在し、さらに大きな市場がこの住宅街の通りを下ったところにある。こうして、ルアンプラバンの都市機能の中心は、植民地時代と比べ、しだいに内陸部に移ってきている。

ラオスの歴史は、革命の前後で大きく分けられるが、ここでは、ルアンプラバン王国が強い力を持っていた革命までの歴史を少し追ってみたい。ラオスが歴史上初めて国家としての体裁を整えたのは、14世紀にここルアンプラバンに建国されたランサーン王国であった。ランサーン王国ではクメールから渡来した上座部仏教が厚く保護され、歴代の王も上座部仏教を信仰したことで国の求心力が強まり、繁栄の基盤となった。名前のルアンプラバンとは、クメールから伝わった黄金の仏像「ブラバーン」に由来する。16世紀にセタティラート王が都をヴィエンチャンに移した後、17世紀以降の内紛時代、国はルアンプラバン、ヴィエンチャン、チャンバサックの3つに分裂した。このうち何とか独立を保っていたのはルアンプラバン王国だけで、他の2国はトンブリ王朝下のシャム(タイ)軍によって占領されていた。そしてルアンプラバン国内にもタイ人の顧問が存在していたから、ラオスの3国はすべて、フランス植民地化以前にはタイの支配領域に包摂されていたのである。フランスは、タイに圧力をかけて189310月「フランス−シャム条約」を結ばせ、タイや英国の侵略から王国を守るという口実で王国から外交権などを獲得し、フランスにとってより重要だったベトナムの「後方の守り」とした。植民地経営の主要な関心はいうまでもなくベトナムにあり、そのため保護国としての地位のまま内政は国王を頂点とする在来の封建的な政治装置に委ねられた。そこでの支配は、「愚民政策」と「放置主義」の2つのキーワードで表される。愚民政策とは、ラオスの国内に教育制度を確立しようとはせずに高等教育はヴェトナムで行わせるというものであった。フランスはナポレオン時代の教訓から、原住民の教育を向上させることによって反仏運動が起きることを恐れた。しかも、ヴェトナム・ラオス・カンボジアのフランス領インドシナ全体をあわせ、3潟Z(高校)は4校、植民地統治の末期1942年にも、就学率は、英領ビルマにすら劣る3%に過ぎなかった(『産経新聞』前掲)。もうひとつの放置主義の方は、ラオスの植民地経営にヴェトナム人を登用しラオ人を最下層の労働者として扱うものだった。鉱山やプランテーションではヴェトナム人が積極的に採用され、また下級官吏にはフランス語とヴェトナム語が必要とされたため、ラオ人が採用されることはほとんどなかった。これらの政策によりフランスはラオ人のための統治をまったく無視した。更にヴェトナム人の移住を進めたことでラオ人の独立をも踏みにじった。また、ラオスの地理的条件である場所ごとの割拠性を利用して、民族を地域的・人種的に分断して統治を行った。これによって民族間の対立が強められていく。更にフランスは、過重な税金や賦役を住民に課した。このような支配体制下では、自然に反仏蜂起が起きる。しかしそれに対してもフランスは、ヴェトナム兵やカンボジア兵をぶつけて更なる民族同士の対立をあおった。こうしてラオ人は、国内のみならず、近隣諸国の民族とも互いに憎み合うようにしむけられていった。ラオスの伝統的な生活様式は失われてゆき、ヴェトナム人やカンボジア人との混血が進んだ。

とはいえ、フランスはラオ人の伝統を踏みにじる政策の一方で、その王権が作り出した文化を保護しようとする一面も持っていた。現在私たちが見ることができる王宮(写真)

は、仏領時代の1904年に、ルアンプラバン王国のシー・サヴァン・ウォン国王によって建て直されたものである。王宮を入ってすぐ右手の部屋の壁いっぱいに、ラオ人の生活が、朝から夜まで順を追って、フランス人画家の手で光線を巧みに使い細かに描かれている。なによりも、フランスが庇護する王室が支配するラオスという場所が存続し続けることは、フランス自身にとって重要だった。なぜなら、この王室自体が、ラオスにおけるフランスの存在を支えてくれたからである。これが、イギリスの直轄植民地となったビルマと異なる点であった。だが、ルアンプラバンの王宮は、タイなどのものに比べるといかにも質素だ。フランスの保護下で「傀儡の国王」としてしかその権力を保てなかったラオスの王族の姿が、そこにはある。ソ連が寄贈したという王宮の前に建つワッタナ王の像(写真)も、堂々とした姿ながらどこかもの寂しい気がした。

第二次世界大戦末期の19453月、日本軍はラオスに侵攻した。フランス軍を駆逐し、シー・サヴァン・ウォン国王は全ラオスの独立を宣言、ラオ人自ら発足した最初の政権となったペサラート政権が発足した。日本はラオスで、ビルマと同じやり方でラオ人に独立を与えたのである。同時に、若者を中心としたフランス支配の復帰に反対するラーオ・イッサラ(自由ラオス)運動が起こり、ペサラート首相もこれを支持した。これに対してフランスは、国王を懐柔することによってラオス復帰を目指し、南部から再征服を始めた。これに対しラオス臨時政府が、外務大臣兼軍事総司令官であったスパヌヴォン自ら先頭に立ち、ラーオ・イッサラ軍を率いて抗戦する。しかし敗れ、臨時政府はバンコクに移り亡命政府となる。この亡命政府をよそに、フランスはシー・サヴァン・ウォン国王による王国政府を樹立させた。バンコクのラーオ・イッサラ亡命政権は内部で、フランスとの妥協の道を探ろうとする穏健妥協派と完全独立まで徹底抗戦すべきとする急進民族派に分裂し解散してしまう。急進派のスパヌヴォンらは、ラオス北部のラーオ・イッサラ武装勢力のもとに赴き1950年「ネオ・ラーオ・イッサラ」(ラオス自由戦線)を結成し臨時抗戦政府を樹立。フランスは、反仏運動によりラオスの維持が困難となった1953年、ついにラオスの植民地支配を断念、独立を与える。そして、1954年ディエンビエンフーでの敗北によりヴェトナムに対する支配も放棄し、旧仏領インドシナに新たな時代が訪れた。

1950年に組織されたネオ・ラーオ・イッサラは、1957年にネオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)という政治組織となり、これがラオス革命による社会主義化を目指すパテト・ラオの中心となる。1954年と1962年に二つのジュネーヴ協定が結ばれ、ラオスの中立・独立・統一を保証したが、どちらの連合政府も崩壊した。ラオスの国土は、山岳部のパテト・ラオ支配地区(「解放区」)と、ルアンプラバン・ビエンチャンなど王党派の支配する領域の2つに、事実上分裂した。この直接の原因は、国内各派の確執や抗争であるが、背後で結びつく外国勢力の支援と干渉にも原因があった。特にアメリカはヴェトナム戦争との関連でラオスを抑えておく必要があったため、フランスに代わって、多額の援助によって王国政府を懐柔してきた。王権をフランスがその植民地統治を通じ一貫して守ったという事実は、独立後ラオスの主要都市を中心とする地域を実効支配した旧王党派勢力に、きわめて後ろ向きながら、親仏・親欧米の姿勢を取らせることとなった。他方パテト・ラオは、北ヴェトナムやソ連に支援されながら解放区の建設を着々と進め、「外国に従属しないラオ人のためのラオ人国家建設」を強く説いた。王党派勢力が後ろ向きの懐古に浸っている状況の中で、ラオスが自給的な農村経済から資本主義を超えて一足飛びに「歴史の前線」に立ちうると主張するマルクス・レーニン主義が支持を得る根拠は、たしかにあっただろう。1975年にサイゴンが陥落したのを受けてパテト・ラオは一気に勢いづき、政権奪取へと進んだ。その年の12月、「全国人民代表者会議」が開かれ、臨時連合政府及ぴ政治顧問委員会の解体宣言がなされた。ワッタナ王は退位を強いられ、旧王党派の官僚はメコン川を越えて対岸のタイに大挙亡命した。こうして、パテト・ラオを中心とするラオ人民革命党の一党支配による社会主義国、ラオ人民民主共和国が樹立された。この時最後の王となったスリー・サヴァン・ワッタナ王の像がルアンプラバンの王宮の庭にある。現在残っている王宮の儀式用の入口を作ったのはこの人である。彼は革命直後に一度は政府の相談役として残ったが、その後王政復古のクーデターを企てたという嫌疑をかけられ、北部の収容所に幽閉されたまま、行方は杳として知れない。(上東輝夫『ラオスの歴史』、青山利勝『ラオス;インドシナ緩衝国家の肖像』中公新書 1995年)

ルアンプラバンの王宮のそばに、社会主義を宣伝する看板(写真)

が立っていた。ヴェトナム人を妻に持つカイソン元党議長の肖像を個人崇拝するように掲げ持つ共産主義青年団の隊列、資本主義を経由しない自立的工業化を象徴する道路や産業のイメージ。革命後の社会主義建設、そして今日まで続く一党独裁を、はっきりと物語っている。ルアンプラバン王宮の前室には、中華人民共和国・ヴェトナム・旧東独・キューバなど元共産主義諸国からの贈り物が、今でも誇らしげに飾られている。だが、これら諸国を手本とした社会主義政策は、5年も経ずして、近隣のタイなど資本主義アジアに広まり始めた「新国際分業」がもたらす輸出型工業化による繁栄の影に、沈みこんでいった。そして1990年代はじめまでに、ソ連・東欧の共産党一党独裁じたいが崩壊する。こうして、1975年に起こったラオス革命は、事実上「地球最後のソ連型社会主義革命」となった。もともとラオスの農業形態は、ソ連型の集団農場化に必ずしも適していなかった。ラオスの農業は半分近くが焼き畑などの略奪農法で、また45%以上の農民が伝統的にケシ栽培によって生活の糧を得ていたため、農業集団化は困難だった。今日でもラオスは米を自給できず、隣接のタイ・ビルマから輸入している。天然資源についても、豊富な資源を持ちながら、政府にはそれを運用する手だてがなかった。革命前、ラオスの通貨はIMFの勧告によって西側諸国によって支えられていたのだが、この援助も打ち切られてしまう。そこで1986年の党大会でカイソン党議長は、西側に援助を求めて「新思考(チンタナカン・マイ)」と呼ばれる経済開放政策を打ち出した。これにより、タイの商品が流入、ラオ人は買った外国製テレビでタイの番組を見るようになり、プミボン国王の肖像がついた紙幣まで流通し始めた。植民地化以前にタイがラオスの上に持っていた空間のフロンティアが、経済の部面で再び広がってきたのである。だが政治的にラオスは、フランス植民地時代のまま、なおヴェトナムを中心とする空間のもとにしっかりおかれている。経済でタイ、政治でヴェトナムという2つの外国に拠点を置く空間の重合。一方は、資本蓄積による経済成長と援助を通じた生活水準向上という甘い蜜でラオ人を引き付け、他方は、私たちがラオスにおもむく直前に起こった、カンボジアのヴェトナム派フンセンによる国王派ラナリット追放に象徴される政治力で、ラオ人を縛り付けておこうとする。私たちがラオスに入る2ヶ月ほど前に、政府はラオス国内でタイバーツの流通を禁じた。タイの経済圏に取り込まれることを恐れての政策のようであった。しかしながら現実問題として、パクベン村でもみたように、ラオスにとってタイとの関係はもはや切り離せないほど深い。バーツのほか米ドルもラオスで事実上通貨として使えるが、皮肉なことにそうした外貨が使えることで自国通貨のキップが安定している事実もある。

私たちは8月8日夕方、古都ルアンプラバンに別れを告げ、飛行機でヴィエンチャンVientianeへと向かうことになった。ルアンプラバンからヴィエンチャンにつながる幹線国道13号線は未舗装の細い山岳道路で沿道の治安も安定しておらず、車で行くことにはリスクが伴う。1997年はじめには、フランス人旅行会社幹部がこの幹線国道で殺された。このため、安全を考えると私たちはこの区間をフライトで通過せざるを得ない。飛行機はいつもながらのように遅れ、空港で2時間ほど待たされた。

ルアンプラバン空港ターミナルは、100%タイの援助で建設された立派なもので、無線標識設備が導入されている。しかし、計器飛行を行なう施設は,まだないという。今後は、チェンマイとのあいだに国際線も飛ぶようになる予定だ。ラオスで、バーツ経済圏の中心・タイは、一人当たり国民所得がラオスの10倍ある立派な大国なのだ。タイ政府は、タイで勉強できる奨学金付き留学プログラムもラオ人に提供している。同行してくれた日本へのタイ政府派遣留学生チャッカラパン君の表情にも、何か自信が浮かんでいるようだった。ラオスではタイが、タイにおける日本と同じ役割を果たしている。そこには、グローバルな国々が発展水準の順に並ぶスペクトル相互のあいだの関係が、はっきりと見て取れる。華僑資本が主力で現在はバブル崩壊に苛まれているとはいえ、1970年代後半からの「周辺フォード主義」的成長で海外からの投資を含め、自国を中心とした産業体系を構築して経済力をつけたタイと、ラオスは長い国境を接し、言語的にも文化的にも親近性を持つ。かつてタイ王国の従属的な支配下におかれ、そのあとフランス植民地主義によってタイから「切り離され」、ベトナムに置かれた本拠から支配を受けたラオス。バーツ経済圏への包摂は、ある意味で、ラオスの「先祖返り」ともいえ、それだけに違和感が少ないのかもしれない。


飛行機の運賃はラオ人の平均月収のおよそ3ヶ月分。機内は当然、外国人がほとんどである。40分あまりのフライトであったが、ペプシコーラが出た。フランス製の真新しいエアバスは難なくヴィエンチャン国際空港に着陸。日本の無償援助で新築中のターミナルビル(写真)を横目に、市内に向かう。

ヴィエンチャンは確かにラオスの他の町と比べるとにぎやかに違いないが、一国の首都であることを考えるとやはりまだ発展途上の感をぬぐい切れない。まだ工業化・サービス業化が進んでいないため首都に雇用機会が集中することもなく、また社会主義政策で農村から都市への自由な人口移動が制約されてきたため、首都といっても市域人口13万人(県域人口は50万人)と、タイの一地方都市のレベルである。

ルアンプラバンからの飛行機が大きく遅れたために、ヴィエンチャンの市内をゆっくりと視察することはできなかった。しかし、湖のように広大なメコン川を挟んで対岸のタイのノンカイNong Khai県は容易に望めた。革命後、ラオスの社会主義政策を嫌ったタイは国境を閉ざしてしまった。しかし現在では、国営企業は電力とバスだけで、後はほとんど民間セクターに委ねられ、タイをはじめ外国資本がラオスに大量に流れ込んでいる。ヴィエンチャン市内には多く外国企業の看板が見られ、タイのホテルチェーンも進出している。1994年にオーストラリアの援助でヴィエンチャン郊外のタドア市とタイのノンカイを結ぶラオス・タイ友好橋が開通し、これによってタイからの物や人の流れはますます加速された。現在では、製造業やサービス業にとどまらず、ヴィエンチャンの周辺の農村部で、タイ国内同様のプミボン国王恩賜農村開発プロジェクトも実施されている。こうした外国からの資金流入により、地元の民間企業も勢力を急速に拡大し、ヴィエンチャンでは5大金持ちと呼ばれる資本家もでるほど、一部の企業家が急成長している。これらの新興企業家やその一族には、75年の革命と同時に祖国を離れ、最近帰国した人が多い。社会主義を嫌い、ラオスという場所をいったん捨てた彼らが、いまラオスの産業振興の原動力になり、政府と外国企業を結び付ける橋渡し役や新市場を開く役割を果たしているのである。今日なお、ラオスとカンボジアに政治的影響力を行使しようとしているヴェトナムは、自国にねざして生産される財の国際競争力がほとんどなく、中国と同様に海外直接投資を呼び込み、いわば自国の労働者を「グローバル経済に売りに出す」かたちで国内経済と乖離した急速な成長を図るしか、いまのところ方法がない。だが、タイ経済の流入を許し、タイからの援助を得て経済的に人々にそれなりの満足を与え、それによって共産党政権への不満が逸らされれば、逆に、ヴェトナムが影響力を持つラオスの社会主義政権の延命が図られる。これは、ビルマや中国と共通する政治戦略である。

こうしたなかで、急激な市場開放がもたらす社会的な弊害が表面化してきた。外貨の急激な流入によって農産物を中心に物価が急上昇、庶民の生活を脅かし、貧富の格差は広がる一方だ。ヴィエンチャン市内では2、3年前はほとんど見られなかったという物乞いの姿も見られ、軽犯罪も増え始めているという。タイとヴェトナムとのフロンティアのせめぎあい、そしてそこに込められた経済と政治のねじれ。これが、社会主義革命後22年を経た「外国に従属しないラオ人のためのラオ人国家」の実像である。

ラオスの経済を語る上で欠かすことができないのが水力発電である。私たちは翌日の8月9日、ヴィエンチャン郊外にあるナムグム・ダム(写真)

を訪ねた。このダムは、1970年の戦争中に、この現場だけを中立地域にして建設された。日本のOECF、そして合衆国、フランスなど9か国が援助したが、実際の工事は日本の技術者が担当し、機械の90%以上が日立製で、日立・東洋綿花・サカイ・鹿島などによってつくられた。このとき日本が供与した借款の返済は現在も続いており,その返済額に見合う債務救済が、日本政府からの無償援助としてラオス経済を支えている。ここで働く係員は182人で4人のエンジニアがいる。完成した今はラオス電力会社がここを管理し、外国からの定期的な援助はないということであったが、数年に一度、日本の無償援助による機械の点検は行われている。このダムは国内水力発電の70%を担っており、1年間で10kwの電気を発電し、その60%が、1kw あたり0.04米ドルでタイに売られ、年間2,800万米ドルの売上を得る。

前々日訪れたパクベンの村は、夜の数時間自家発電があるだけだった。まだ電気の恩恵を受けていないラオ人は、山間部の至る所にいる。にもかかわらずラオスは、外貨を獲得するため、その電気を工業化が進み電力需要の高まるタイに販売しているのだ。はじめからタイに電力を販売することを意図して設備が建設されたため、タイはこれを踏まえて電力を買い叩いうており、タイの買電価格は、世界一安いということだ。最近タイは、エネルギー需要の逼迫を緩和するため、ラオスからの輸入の拡大とカンボジアからの電力輸入を決め、ビルマや中国雲南省からの買電も検討し始めた。タイには、資源は豊富だが工業化の遅れている周辺諸国に外貨を獲得させ、タイ産業の市場を育てて一層バーツ経済圏を拡張するという地政学的なねらいもあろう。アジア開発銀行の試算によると、現在ラオスは水力発電の潜在能力の1%しか開発していない。現在、ダムの効率を上げるための水量調整用ダムが既に出来上がり、また第2ナムグムダム開発が日程に上っている。ラオスにとって、水力発電にかける期待は大きい。そして、資源輸出により外貨を獲得するという、古典的な途上国の貿易パターンが、ラオスではまだ健在なのだ。  

このダムがつくった370km3の水量を持つナムグム湖には、魚などの養殖、洪水の防止、観光開発、といった目的もある。マレーシアの民間資本0の8億ドルの資金で、周辺に飛行場・スーパー・ゴルフ場などレジャー施設をつくる計画だ。ダムから少し先の湖まで車を進めた。湖の中にある島には刑務所があり、革命の時ヴィエンチャンにいた売春婦をすべてここに収容したという。現在島にゲストハウスがあり、観光地となっている。大体115千キップ(約1,700円)くらいで遊べるらしい。しかし、ラオス人の来訪は、禁止されているという。もし可能だったとしても、平均月収6万キップ(約7千円)というヴィエンチャン市民が週末にしばしば遊びに来られる価格ではない。主にここを利用するのはタイ人観光客だ。湖の周辺は市場になっていて、ラオ人の商人がたくさん来ている。また湖の対岸にはダム建設の際移住させられた7つの村があり、そこの住人も船でこの市場まで買い物に来ていた。また、おもしろい光景が見られた。湖の底から船で材木を切り出していたのである。この湖の下はもともと森だったために、これらの木材を引き上げて売っているという。マレーシア資本傘下にあるこの事業は、森林の伐採を抑え、またダムの水量を増やせるなどのメリットがある。湖水は現在灌漑に利用していないが、将来的にはそのような計画もあるらしく、灌漑設備の未熟なこの国でこのダムにかける期待は大きい。しかし、悪影響として、資源の採掘ができなくなる、自然が破壊される、などが挙げられていた。

ラオスのダム開発事業を見て、援助に頼った開発という側面が非常に大きいことに気づく。現実に、いまのラオ人民民主共和国政府には、これだけの大がかりなプロジェクトを動かすだけの力がない。このため先進諸国からの援助が必要となるが、援助に頼った経済が続くと、援助が既定の事実としてラオスの国民経済構造に組み込まれてしまい、国がますます援助に依存するようになって、かえっていつまでも独り立ちできない、というパラドクスが生まれる。逆に援助する側には、人道的立場など名目はどうであれ、援助供与により対象国により大きな影響を及ぼそうと考え援助を外交・政治的な国家間の競争手段にする、という地政学的な戦略がある。ナムグムダムに向かう道路の橋梁やタイと結ぶ友好橋建設など大規模なインフラ投資の部面では、近年、英国むきの姿勢を捨ててアジアとの連携強化をねらう、オーストラリアのプレゼンスがかなり目立ってきた。日本も、ほかにバスターミナルなどに援助を行っている。しかし今後は、援助を諸国の間でバラバラに行うのでなく、援助対象国を経済的に自立させるという戦略目標が明確な、多国間で慎重に練り上げられた長期的なプログラムに裏付けられた包括的な援助を行う可能性はないか、探って行かなくてはならないだろう。これにより、資源開発や空間統合、産業インフラ開発などが実現し、タイやその他の諸国から資本を呼び込むことに成功すれば、ラオスは新国際分業のスペクトルのステップを、より速くあがって行くことができるようになるだろう。

ナムグムダムを見学した後、首都ヴィエンチャンでラオスの歴史を物語る2つのモニュメントを訪ねた。ラオスの主権の象徴であるPha That Luangと、Patuxaiである。

Pha That Luang(写真)

には、紀元前3世紀にインドから布教にやってきたお坊さんたちにより仏陀の整骨が収められているという。しかしはっきりとした証拠は残っていない。現在私たちが眼にする外観は、16世紀の中頃、セタティラート王がランサーン王国の首都をルアンプラバンからヴィエンチャンに移したとき造られたものである。この際、このモニュメントは宗教的な意味に加えて権力の象徴としての意味も持つようになった。(Joe Cummings, Laos, 2nd ed., Hawthorn, Victoria: Lonely Planet, 1996, pp.144-145)革命後ラオスの国章にはソ連国旗と同じ鎌とハンマーが入っていた。いまではそれがこの王権の象徴に置き換えられている。

Patuxaiを見て、私たちは、急にパリに来たかとわれを疑った。1969年、滑走路を建設するため合衆国から援助で得たセメントを使って王党派が造ったモニュメント(写真)

がこれである。周囲へはエトワール広場のように道路が八方に広がり、シャンゼリゼのような通りにはラオスの主要官庁が建ち並んでいる。この建造環境は、王党派が旧宗主国フランスとどう結びついてきたか、物語ってあまりある。


その後私たちは、タイとの間に架けられた友好橋に向かった。ヴィエンチャンからタイ国境に向かう沿道には、日系の縫製工場も含むいくつかの工場が立地していた。国営から海外との合弁に移行したラオス随一のビール会社、「ビアラオ」の工場も、ここにある。国内のあちこちに、新国際分業に取り込まれたラオスの工業がちらばっているが、この道路沿いは、その一つの典型的な場所である。ラオスの空間統合が未だ極めて不十分であるところから、この輸出加工型工業地帯は、タイの対岸にあって容易に原料と製品の物流が可能な、この限られた地区にも集積している。こうして、グローバルな経済への包摂とともに、ローカルなレベルではいっそうの空間的不均等が惹き起こされている。しかし、ここにかつて日本の商社が工業団地を建設しようとしたとき、一帯は農業地であるという理由で、政府は許可をおろさず、ラオス一の幹線国道、13号線を南に下った10kmの地点に、ラオスの国内市場をあてこんだ工業団地建設を政府はもくろんでいる。しかし、インフラの不備などの理由のため、うまくいっていないという。

メコン川をわたる国境には、真新しい国境管理事務所があった。あいにく昼休みで銀行は閉まっており、ラオスのキップをバーツにもどせない。出入国管理事務はやっていたが、勤務時間外に執務する手数料(一人1,100キップ)を徴収された。

メコン川の今後について、考えてみよう。1996年末に、メコン川に新たな4本の橋梁が建設される見通しとなった。「大メコン経済圏」の実現を促すメコン川開発は、流域6ヶ国を巻き込む国際的大事業で、当事国のみならず、アジア開発銀行やASEAN、そしてインドシナの地政学的重要性から日本政府も関心を寄せている。日本は20年ぶりにラオスに、サバナケットでの架橋事業に円借款を再開した。発電のほか、農業・漁業・林業・観光などが有力分野と予想される。そのなかで、豊かな流域の環境をいかに守りながら開発を進めるかがポイントとなる。周辺に居住する少数民族への影響も、考慮すべき問題であろう。

ラオスにとっては、なお交通・通信という空間統合の課題に直面していることが、この巡検を通じて私たちにわかった。鉄道は1mもなく、ヴィエンチャン周辺を除けば道路の整備は全く不十分であるし、インフォーマルセクターが担うメコン川の高速艇だけでラオス全体がグローバルな時間のスケールと調子を合わせて行けるとも思われない。とはいえ、すくなくとも通信事業の部面では、日本の無償援助によって衛星国際通信の近代化が行われた。だが、これに対し、国内通信では、日本とIDAで作ったラオスの通信網を、ラオス政府高官と結託してタイのチナワットグルーブが買い取ろうとし、これに日本や独仏がクレームをつけるという混乱が起こって、立ち遅れている通信インフラの開発がさらに滞るという事態が起こっている。

とはいえ、今後開発が進むにつれ、ラオス経済がバーツ経済圏の影響を強く受ける傾向はますます加速していくものと思われる。しかし資本主義は、バブルやその崩壊といった、景気変動を不可避的に伴う。バブル崩壊の後、タイはもちろん、アジア全体の経済がいま大きく揺れている。他方、ソ連・東欧の旧体制は崩壊し、旧社会主義諸国からの技術の流入が途絶え、しかも人々がアメリカ型の消費の味を知り始めたラオスで、ふたたび「第三世界」の内発的発展の実験は不可能だ。そのなかで、ヴェトナムの影響力が濃く、すでにソ連・東欧で当たり前となった自由選挙を主張する「反体制派」を強制収容所に閉じ込めているという情報もある人民革命党一党独裁の政治は、ラオスでますます生き延びるかもしれない。こうして、ラオスの今後の発展は、更にたくさんの課題を抱えたものにならざるを得ないだろう。

 私たちは、オーストラリアの援助でできた「友好の橋」を車で渡ってラオスからタイに再入国した。ラオスはフランスの影響で右側通行だが、タイはイギリスの影響で左側通行なので、途中ラオス側の渡り口に、左右の車線が交差する個所が設けられている。鉄道は、タイ側の橋のたもとまで建設がすんでおり、橋に線路を敷けばいつでもヴィエンチャンまで鉄道が乗り入れできる準備工事がなされている。

タイに入国するノンカイNong Khaiの国境には、高速道路の料金所のような検査所がある。陸路入国であるが、国境ではビザの要求も出国時の切符を見せる要求も係官からなく、スムースに手続きが済んだ。ただし、昼休みに入国手続きをさせたため、こちらでも超過勤務手数料を徴収される。

ノンカイに入るとすぐに、バンコクにあるのと似た大型の郊外ショッピングセンターが目に入る。しばらくラオスにいて目にしなかったものだけに、余計気になる。メコン川を望むホテルで、ノンカイ県のLaeunyot Leechat副知事と懇談(写真)。

ラオスが開放され、ASEANに加盟したところから、タイからラオスへの最大の陸路国境通過点として経済発展を図ろうとする意欲が伝わってくる。だが、単に工場を外から誘致するということではなく、土壌が良質で保水力がある自然条件を生かして農業を重視し、トマト・パイナップルなど関連する農産加工業を振興させようとする姿勢を示していた。印象的だったのは、「タイは、世界第4のベンツ輸入国だが、世界で4番目に豊かなわけではない」という言葉である。


懇談後、農業センター(改良普及所)の職員の案内で、農民を現地に訪ねた。初めに、Praphat Rachabunthitさん(53)を訪問した。保有面積は20ライ(3.2ha)、うち実際に耕作しているのは7ライ(1.1ha)である。以前は米や野菜を作っていたが、20年前から、高収入を求めて多角化をはじめた。現在は花卉が主要な作物で、野菜や果物も少しだけ作り、かなり高度な輪作体系を構築している。収入の面でも、いろいろなものを作った方が、年中安定する。除草に手間がかかるが、除草剤は土壌を悪化させるので使わず、鋤き込んで肥料にする。1日78時間、多いときには10時間ぐらい働くという彼の農業経営にかける意欲は強く、周りの小さい農家に農業技術を広めたりもしている。1年間の農業収入は10万〜20万バーツ、その約半分が利潤というから、正味農業所得は年に3570万円。しかし、工場で労働すれば、賃金は1日120バーツ(400円)ほどだというから、農業を続けた方が所得はずっと高い。工場に働きにゆくことはないし、食料品工場などへの原料供給の計画もないようだ。家族は4人で、プラパットさん夫妻2人が主に農作業に従事し、娘が切った花をノンカイの市場へ売りにいく、というように自家労働力で基本的にまかなっている専業農家だ。市場には時々バンコクから商人が来るが、200300バーツしか売らず、1本1バーツくらいに買いたたかれる。自分で直売すれば1本3バーツだ。このため、仲買人を通じてバンコクなどへ出すこともめったにないという。製造業部門と、原料においても労働力においても全く連関がないまま、花卉栽培という地元の直接消費市場に依拠することで、農業経営が成立しているのである(写真)。

機械や設備は、ビニールハウスの布のようにタイ政府から資材の現物が援助されることもあるが、お金が足りないと、15人ほどのグループを作って農業銀行から借りることもある。そのグループ内での合同農作業はないが、高い農機具を共同購入し共同利用することはある。現在は、スプリンクラーの購入を考えている。改良普及所は資金援助をするわけではないが、耕作技術・経営のアイディア・品種改良・その他困った時の相談役として大きな役割を果たし、日本人のボランティア技術者も2年間プラパットさんに援助のため訪れたことがあるという。そのおかげでノンカイ近郊には、生きるのがやっとなほどの極貧の人はいない。相続については、農業のやる気のある人に分けるつもりだそうである。農業に成功したプラパットさんによる成功の秘訣は「勤勉・節約」であり、現在抱えている問題は、洪水・虫・労働者不足とのことであった。

次に私たちが訪れたのは、近隣の、より貧しい農民であった。貧しいとはいえ、銀行からお金を借りることもあまりなく、いざというときのため貯金もしており、電化製品もテレビ・アイロン・コンロ・炊飯器がそろっている。彼は800uほどの小さな土地で、プラペットさんから指導を受けつつ、農機具は使わないで花と少しのジャスミンを耕作している。米を作ったことはなく、ノンカイの市場で売る花を中心に、1日100バーツ(330円)の収入がある。今後タイでの米作りは減り、資金を出してラオスなどで作らせるだろうといっていた。彼には3人の息子がいるが、工事現場のセメント係が2人、工芸技術者が1人である。現場が暇なときに農業を手伝わせることもあるが、普段は奥さんがノンカイの市場で1日中座り込み、注文があると彼が狩ってバイクでもって行く。1日に1,000個ほどの注文があるそうだ。余れば仲買人に売るが、ほとんどを直売する。彼はタイ国籍だが、ラオスで20年ほど水田農業をやった。だが、経験したソ連コルホーズ型の農業集団化は、革命後2年ほどで早くも崩壊の瀬戸際に瀕した。ラオ人の奥さんをもらったものの、ラオスの社会主義的な農業政策に不満を感じ、少しがんばったが耐えられず、妹の土地を分けてもらってタイに戻ってきた。決まった賃金で働く工場より農業の方がお金になるし、何より気持ちいいので、農業を辞めて工場労働者になろうと考えたことはないという。将来息子に農業を継がせるかどうかも、すべては息子次第だとのことであった(写真)。

ノンカイでは2人の農民を訪れてお話を伺ったが、いずれも農業改良普及所の指導と、プラパットさんのような篤農家から伝播する農業技術がかなり大きな役割を果たしていた。改良普及所のおかげで皆そこそこの生活ができるレベルになることができたとして、農民たちは、特に技術面で、改良普及所にかなりの信頼を置いているようだった。商品の流通に関して、市場を通したバンコクなどとのつながりがなくとも、花という贅沢品の局地市場で農業が成り立つところには、バブルがはじける以前の経済の影響が感じられる。しかし、農業によってかなりの高収入があるということは、それ自体が局地市場における大量消費を支える一因ともなる。

農村部に基盤を置く政党や官僚の力を背景に農村部に手厚い資金が流れるありさまは、日本とよく似ている。しかし少なくとも日本と違うのは、この財政資金が、農業開発による局地経済発展という本来の目的のために、きちんと使われて成功を収めているということではないだろうか。


私たちは、タイとラオス、そしてビルマを訪問し、そこには、「第一世界」から「第三世界」というリジッドに国家を振り分ける3つの領域のモザイクにかわって、資本主義がグローバルに展開する空間に広がる新国際分業の空間編成という一つの定量的なスペクトルができあがっていることを実感した。このスペクトルには、狭い意味での経済的行為のみならず、人々のメンタリティー、時間と空間のスケール、教育制度、消費様式、政府の政策など、およそ社会生活のすべてが関わっている。教育やメンタリティ、政府の政策がどのような質のものであるかは、それぞれの国がスペクトルの中にもつ位置を規定するし、ひるがえってこのスペクトルのどの位置にそれぞれの場所が位置しているかによって、それぞれの場所の生活水準や消費様式が、そして場所相互の支配・被支配の関係までが段階的に規定されてしまう。それぞれの場所は、当然、より高いスペクトルにおける位置を求める。この位置がどうであるかということには、一般の市民の生活水準も賭けられているのだから、政府だけでなく、タイ・ビルマ国境近くの少数民族の集落に至るまで、草の根の人々も必死である。

しかし、経済の強制法則が持つ必然性は厳しい。生産活動による資本蓄積という経済の実体を無視して高い生活水準や投機的な高利潤のみを追い求めれば、負債は膨らみ、いずれバブルがはじけて、経済は破綻に追い込まれる。いま、私たちが訪問したいくつかの国は、この帰結がもたらす辛酸をなめている。私たち自身の国もまた、この苦しみの中に置かれている。

とはいえ、グローバルな経済空間に実体経済を通じて参入する戦略がわき道にそれ、バブルが崩壊したからといって、1970年代までのように、そこから輸入代替や社会主義化による民族自立という「第三世界」の理想が再び頭をもたげる兆しは、タイにもラオスにもまったくない。どのように経済が破綻し、社会が混乱しようとも、グローバルな経済空間の地図の中で自国という場所の発展戦略を考えるしか選択肢がない、という認識は、アジアの大部分の国に強固に根づいてしまったのだ。いまや、どの国も目指すものは、同じである。定量的に貨幣(米ドル)のタームであらわされる国民所得、外貨準備、貿易黒字などの水準を、どう高めて行くか、ということである。これが消費水準を高め、「周辺フォーディズム」という階級同盟を一層強固にし、そして現体制を一層安定化させるのだ。

この戦略をそれぞれの国家が立てるにあたり、再び「場所」の要因が重要となる。それぞれの場所は、「第三世界」の内発的発展論が強調したように、固有の場所性をもっていることはまちがいない。しかし、かつて無条件で絶対的に価値あるとみなされたここの領域のロカリティが、いまでは、グローバルな経済空間の連続性をまたにかける貨幣のタームで厳密に評価されてしまう。場所の価値は、その限りでおおいに意味を持ち、またその限りでしか意味を持たないものに転形してしまったのである。自国の国民を低賃金労働力として多国籍企業に大人しく差し出すことはいわずもがな、水力や木材などの資源も、どしどし外国に売りさばく。少数民族の文化を観光資源ととらえなおし、人間動物園にして外国人ツーリストを呼び込む。他国の国境からすぐ入れる街では、道徳をかなぐり捨てたより緩い自国の規制でタイの規制を乗り越えることをねらう。自国に埋め込まれた文化的・社会的伝統=embeddednessをどう動員し、グローバルな経済空間に財を供給する新国際分業の一翼を担い、経済発展を果たすためには、いまやどんな行為でも正統化されるようにみえる。

注意しなくてはならないのは、この転換が起こったのが最近だとしても、スペクトルの序列自体は、それぞれの場所に埋め込まれた伝統に依存するもので、昨日突然出来たものではない、ということだ。それぞれの場所のスペクトルにおける位置には、19世紀の植民地の時代にまでさかのぼる遺産が、今日なお色濃く投影されている。タイは、日本も同様、西欧列強の植民地化の犠牲になることを免れたが、タイが外国や華僑の自由貿易に経済の近代化を委ねたのに対し、日本は、自立的な殖産興業を強く推し進めた。ラオスやビルマは、韓国や台湾と異なり、宗主国の「愚民政策」に由来する貧しい教育制度や、冷戦体制がもたらした局地戦争の犠牲となって、いまでも、経済発展を支えるに足る国民を多く「人的資本」として労働市場に登場させることが十分にできていない。

それぞれの国が持つ、このスペクトル上における位置の差は、国々がそれぞれ空間の相対的位置をも同時に持っている以上、地政学をはらんだ競争を導かざるを得ない。タイのように、ラオス・ビルマ・カンボジアなど、よりスペクトルの中で低い位置にある他の近隣諸国を自国の経済圏に包摂できた国は、当然他に比べて優位に立ち、そのフロンティアを拡大することができる。しかし、こうしてできた領域もまた、永遠に固定的ではない。バブルで発展してきた経済が崩壊すれば、そのすきに他の国が自国を抜き去って行ってしまうかもしれない。そして、経済領域の境界も、引き直しとなるであろう。

日本も、相次ぐ企業の破綻とつるべ落しの円安・株安の傾向でますます明らかになったように、このグローバルな競争の埒外にいるわけでは決してない。日本以外のアジア諸国が「第三世界」、日本だけが「第一世界」といった日本人の頭の中にある領域区分は、いい加減止めにしなくてはならない。このときはじめて私たちは、アジアの一員として、そして同時に日本経済を担う主体として、自覚の第一歩を手に入れるのだろう。

こうした自覚のもとで、私たちは21世紀に向けて何を考えどのような行動をとるべきだろうか。これまでの、「第一世界」から「第三世界」まで、国家群を3分割するという世界認識がまったく間尺に合わなくなった新しいグローバルな経済空間において、こうした諸国家のスペクトルという新しい座標軸で考えねばならないこと。これは、もはや疑いない。しかしそのその座標軸において、もともと「第三世界」論が主張してきたはずの、国家の、そしてそれぞれの国民の対等で定性的な個性は、なお存在しうるのだろうか。存在するとすれば、それはどのような様式においてであろうか。これは、グローバルな経済空間の下で資本蓄積に突き進むアジアの諸国が、まだ十分に検討していない問題である。私たちは、現地で、少数民族の近代化と観光化、あるいは援助の役割などのテーマを通じ、この問題について議論する機会があった。しかし、むろん、万能の答えが導き出せたわけではない。もう一度、グローバルな国際分業の空間のなかにロカリティの価値がもちうる可能性とその必然性を、実際に現地におもむいて学ぶ中から逆照射してみること。このことは、とりわけ地理学を学ぶ私たちが、なお続けなくてはならない営みであるように思われる。

このようなことを、現地で経験しながら考えた私たちを乗せて、ノンカイ発の快速列車は、タイ東北部の闇の中をバンコクに向けて疾走しつづけた。


(文章は、1997年8月2日〜10日に行われたゼミ巡検中にゼミ全員が分担して取った記録をもとにして、藤田哲史(大学院)、森田和男(4年)、丸山龍一・飯田瑠美・尾曲一仁(3年)、水岡不二雄 が共同で執筆した。)


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